キム・ヘジン 著 古川綾子 訳 亜紀書房 刊
母親と娘、家族像

大切な一人娘がセクシャルマイノリティだった。その事実を受け入れられない母親の心情は……?
本作品の主人公の「私」(母親)は、夫をすでに亡くし、介護老人施設で老人介護を仕事にしている。担当は、その昔、華々しいキャリアを築いた女性、ジェンで、身寄りがなく認知症が進んでいる。そして、「私」には、独立心の強い、成人した優秀な一人娘がいるのだが、経済的な事情から、娘は実家へ戻ってくることになる。そんな「私」の心情は複雑だ。娘は、「あの子」と一緒に実家で暮らすという。「あの子」とは、娘の同性パートナーのレインだ。
あふれ出す感情
もし、娘とレインが、自分の目の届かないところでひっそり暮らしているなら、私は、娘の婚期を気にしながらも、さほど気に留めずにやり過ごせていたのかもしれない。けれども、三人で一つ屋根の下、暮らすとなると話は別だ。私は、二人を自宅に住まわせるが、決して、二人の関係を受け入れたわけではない。さらに、作中、娘と二人で過ごす時間より、レインと二人きりになる時間のほうが多いように感じられる。
自分の娘が、自分の願った通りの人生を歩んでいない。私はいらだち、自分の子育てを振り返り、自分を責める。また、失望と怒りの矛先を、レインに向け、ここから出て行って欲しい、娘を不幸にしている張本人があなただと、すべての不満をぶつけてしまう。
ジェンという存在
作中、私が仕事で世話をしている、ジェンの生々しい介護の描写が多く、正直なところ、その切ない現実から目をそむけたくなる。けれども、一見すると、ジェンの介護は、本作のタイトル『娘について』とは全く無関係なように思えるのだが、実は、このジェンの存在と、私とジェンの関係が、この物語の重要な伏線になっているつくりだ。
私とジェンは、年齢的にみれば、私がジェンの娘でちょうどよいくらいだろう。しかし、認知症を患うジェンは、いつしか、私のことをお母さんと呼ぶようになる。もちろん、ジェンと私は赤の他人で、本来、仕事上の繋がりしかない。けれども、身寄りのいないジェンを、施設の独断の判断で、より劣悪な施設へ移動させようとするのを、私は断固として反対するのだ。まるで、母親が娘を守るかのように。
劣悪な施設へ連れていかれそうになるジェンの移送をなんとかくいとめた私は、こう思う。
私も娘も長い人生の最期は、あの女性みたいに閉じ込められて死を待つという罰をうけるのだろうか。
『娘について』本文より引用
つまり、私は、ジェンに、自分や娘の将来の姿を重ねていたのだ。
揺さぶられる心
そんな中、正義のために声をあげていた私の娘が、暴力沙汰に巻き込まれてしまう。娘が必死に守ろうとする信念と幸せが、なぜ暴力で攻撃され、痛めつけられなくてはならないのか。傷ついた娘を目の前にし、私の心は揺さぶられ、悲しみにくれる。そこまで攻撃される必要がなぜあるのだろうか。この問は、かたくなに娘とレインの関係を拒んでいた私自身への問でもあるのだ。
繋がる点と点
実は、個々人のセクシャリティは当事者だけのものではなく、家族像の変容もともなうということ。社会通念通りの家族像へのこだわりが、母親の心を苦しめる。しかし、それは誰のための苦悩なのか。なぜ苦悩するのか。このような問いの答えが、本作品を読み解く鍵となる。
物語の終盤、点と点で存在していたような四人の登場人物、私、娘、レイン、ジェンは、奇跡的に一つの線で繋がり、つかの間の小さな安らぎが訪れる。社会通念の呪縛から解き放たれた光景は、社会全体から見たら小さなものかもしれないが、一言に美しい。そこに見えるのは、新たな家族像とも言える。けれども、まだ、私の心の中に、娘に対する迷いが残っていることも忘れてはならない。
そう。これが家族なんだろう。私はこの子のたったひとりの家族なんだ。
『娘について』本文より引用
これは、物語の始まりで、娘とうどんを食べる私が心の中でつぶやいた言葉だ。ここから出発し、その後、私がたどりついた行先は、かなり想定外であったであろう。いつの日か、「あの子」も私の(義理の)娘となる日がくるのかもしれない。
終わりに
作品を読み終わった後、『娘について』という本作タイトルの娘とは、誰を指すのか、是非とも考えてみてほしい。
著者紹介
キム・ヘジン(金恵珍:김혜진)
1983年、大韓民国大邱(テグ)市生まれ。デビュー作は、2012年発表の短編小説「チキンラン」。2013年、『中央駅』で第5回中央長編文学賞受賞。 2018年、本作で第36回シン・ドンヨプ文学賞受賞。日本で翻訳されている作品に、短篇集の『君という生活』などがある。