カーレド・ホッセイニ 著 佐藤 耕士 訳 KADOKAWA 刊
君と僕の人生を大きくかえてしまった裏切り
心に訴える文章、目に浮かぶような情景描写、緻密な構成、そして登場人物それぞれの性格や人生まで入念に描いた圧巻の物語。世界で800万部以上の売上を記録し、52か国語の翻訳、120週連続NYタイムズ紙ベストセラー入り、2007年に映像化された。
アフガニスタンの首都カブールの裕福な家庭に生まれたアミールは、召使いの子ハッサンと幸せな子ども時代を過ごしていた。だが、ある事件でハッサンを見捨てた自分が許せず、ハッサンを見ているのがつらくなって、ハッサンが家を出ていかざるをえないようにしてしまう。
26年後、ソ連のアフガニスタン占領によりアメリカに移住していたアミールに、父の友人ラヒムから電話がかかってくる。タリバンに占領されたカブールへ行って、ハッサンのために力を尽くしてほしいというのだ。
ここまで自分を追いつめてしまったのはなぜなのか?
ハッサンを助けなかったことに罪悪感を持ち、ハッサンを見ているのもつらくなったため、さらに罪を重ねて、結果としてハッサンを家から追いだしてしまう。それには複数の要因があったと推察する。
アミールはパシュトゥーン人であるため、パシュトゥーンの掟に縛られていた。「敵から追われている者を助けるべき」だと信じている。それを守れなかったことをひとに知られたくなかったのだろう。
パシュトゥーンの掟はパシュトゥーン人にとって非常に重要なものだ。たとえば、アフガニスタンへ行ったときに世話をしてくれた家では、子どもたちに食べさせる分までアミールたちのもてなしに使ってしまう。「訪問者をもてなさなければならない」という掟があるからだ。その夜アミールが盗み聞いてしまった、その家の夫婦の会話は次のようなものだった。
「――子どもたちの分がなんにも残らなかったなんて」
「私たちは腹を空かせても、野蛮人じゃない! 彼は客人だぞ。ほかにどうすればよかったんだ」
(「君のためなら千回でも」本文より引用)
このように、パシュトゥーン人は自分を犠牲にしてもパシュトゥーンの掟を守らなくてはならない。
ふたつ目は、父親ババに嫌われたくなかったからだろう。ババは体が大きくて強く、常に正義を重んじ弱い者を助ける。そのババには自分が臆病で卑怯者だったことを決して知られたくなかったのだ。
最後に、パシュトゥーン人でスンニ派ムスリムのアミールは、ハザラ人でシーア派ムスリム、召使いの子であるハッサンを心のどこかで見下していたから助けなかったのだと気づいて自分を恥じたのだろう。 このような理由から、自分のしたことを消しさりたくて、ハッサンを追いだそうとしたのだと思う。
アフガニスタンの恋愛と結婚
恋愛や結婚も日本とはかなり異なる。親が結婚を決めるのが一般的なアフガニスタンでは自由恋愛が難しい。家族ではない男女は話をするものではないのだ。アミールも好きになった女性と話をすることが難しかった。相手が何の本を読んでいるのか聞いただけで、周りじゅうの好奇の目にさらされた。また結婚を決意した時も、父親が相手の父親に娘との結婚の許可をもらいにいっている。次のような結婚の儀式の描写がある。
わたしたちはそれぞれ鏡を手渡され、頭にベールをかけてもらった。鏡に映る相手の姿を自分一人でながめられるようにするためである。ベールという束の間与えられたプライバシーのなかで、鏡に映るソラヤの微笑みを見ながら、わたしははじめて彼女に、愛しているよとささやいた。とたんにソラヤのほほが、ヘナの花のように赤く染まった。
(「君のためなら千回でも」本文より引用)
結婚式でさえも、直接相手の顔を見るのではなく鏡を通して見るという初々しさに感動した。
タイトルに込められた意味
「君のためなら千回でも」というのは、凧合戦でアミールが落とした敵の凧を追いかけて取ってこいと言われたハッサンが、アミールに向かって叫んだ言葉だ。ハッサンがいかにアミールに忠実でアミールを大切に思っているかがわかるひとことだ。原書タイトルの『The Kite Runner』はこの凧合戦で糸を切られた凧を追いかける者という意味だ。
凧合戦はアフガニスタンの冬の伝統行事で、凧同士を戦わせて相手の糸を切ったほうが勝ちとなり、糸が切れた凧は、それを追いかけて取った者のものとなる。アミールとハッサンでこの凧合戦に参加して信頼を深めていったし、物語の最後では、なかなか心を開いてくれないハッサンの子どもとアミールが心を通わせるきっかけとなっている。
アフガニスタンでタリバンが政権を執った後、この凧揚げを禁止したことを知って、ホッセイニはショックを受けたそうだ。著者にとっても大切な思い出なのだろう。アフガニスタンの冬の空に再びたくさんの凧が上がる日がくることを願う。
著者紹介
カーレド・ホッセイニ
1965年アフタニスタンの首都カブール生まれ。父親は外交官、母親は高校教師。1980年に米国へ亡命。カリフォルニア大学医学部卒業。医師として働きながら執筆活動を始め、2003年「君のためなら千回でも」にて作家デビュー。2007年「千の輝く太陽」を発表し、同年の米国年間ベストセラーとなる。2006年国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善使節に任命され、自身でもNPO団体<カーレド・ホッセイニ・ファウンデーション>を設立する等、アフガニスタンの人々を支援。

