アルンダティ・ロイ 著 パロミタ 友美 訳 春秋社 刊
墓場の楽園、楽園の墓場——美しくも残酷、おかしくも悲しい世界の片隅で

無数の人物と物語が、繊細で大胆な刺繍のように複雑に絡み合い、一つの世界を構築する。愛と絶望と困難と希望を超えたところにあるものとは——。
幸福とはなにか?どこにあるのか?
デリーの公立病院裏のムスリム墓地に住むヒジュラーのアンジュム。宗教暴動に巻き込まれるも「ヒジュラーを殺すのは不吉」だと生かされた彼女は、それまでの生活を棄て、一人墓地にやってきた。
やがてそこは「楽園ゲストハウス」と名づけられ、社会からはぐれてしまった人たちの住まいとなる。ある事情から、赤ん坊を連れたティローという女性も加わり、彼女の大学時代の同級生で、カシミール武装ゲリラの闘士となるムーサーの人生も交差していく。
分断された現代インドのかけらを丹念に拾い上げ、無二の世界を再構築する——処女作『小さきものたちの神』でブッカー賞を受賞したアルンダティ・ロイ、20年ぶりの小説。
男でもなく、女でもなく、その狭間に
物語の最初から登場する墓場のアンジュムは、ヒジュラーである。男性でも女性でもない第三の性とされ、「男の肉体に囚われた女」として生きている。
アンジュムは墓石と墓石の間に絨毯を敷いて寝るのだが、二晩続けて同じ墓石の組み合わせにしないという妙なこだわりまであったりするのが面白い。
彼女は、デリーのイスラーム伝統生薬の医者の家に生まれ、アーフターブという男の子として育てられるも(両性具有であることは長らく 母だけが知っていた)、本来の自分に気づき、夢の家と呼ばれる場所に移り住む。
そこは、ムガル帝国第5代君主シャー・ジャハーンがヒジュラーたちのために建てたという歴史ある屋敷だった。アンジュムはデリーで一番有名なヒジュラーとなる。
艶やかに着飾り、仲間と一緒に暮らしていた彼女はなぜ墓場に?
「墓場かパキスタン」と叫ぶインコたち
アンジュムは、巡礼の帰りに立ち寄ったグジャラート州アフマダーバードで暴動に巻き込まれ、この世の地獄を経験してしまったのだ。
これは2002年に同地で起きたヒンドゥー教徒・イスラーム教徒間の大規模な暴動を指している。殺害されたイスラーム教徒の数は1000人とも2000人ともいわれ、略奪、放火、強姦も行われた。
物語では、「鉄の爪」と「血ぬれの嘴」を持つ「三万のサフラン色のインコ」はこう鳴いたと語られる。
ムラルマーン・カ・エーク・ヒー・スターン!カブリスターン・ヤー・パーキスターン!
イスラームの人間の居場所はひとつ! 墓場かパキスタン!(『至上の幸福をつかさどる家』本文より引用)
ヒンドゥー教徒は通常火葬され、墓はない。なので、「墓場(カブリスターン)」という言葉は、ムスリムの埋葬文化を前提にしたもので、墓場=死だけでなく、彼らを排除しようとする言葉として二重の意味を持っているようにも感じられた。
「サフラン色のインコ」の大群は「男たちを折り畳み」、「女たちを開いた」が、アンジュムは殺されなかった。なぜなら男でもない女でもない「ヒジュラーを殺すのは不吉」だから。
「虐殺者の幸運」で生かされてしまった彼女は、夢の家を出て文字通り墓場に向かった。生きたまま。
墓石付き(!)停電なし(!!)のゲストハウス
墓場で「荒れ果てて野生化した亡霊として」過ごしていたアンジュムだが、周りは彼女を放っておいてはくれなかった。
次第に元気を取り戻し、「人のさして寄り付かない、寂れた墓地」だった場所に色鮮やかな空間が現れる。壁が「どぎつい赤紫色」で、「扉や窓が淡い淡黄緑色」というド派手な内装の台所付きの小屋だ。
アンジュムは、「墓石付き(!)で、(霊安所から電気を引っ張ってるので)停電がない(!!)」部屋を増やし、自らそこを楽園ゲストハウスと呼ぶようになった。そこに流れ着くように一人、また一人、社会からはぐれた人たちが吸い寄せられてくる。
主人公の一人、ティローもそうだ。著者自身の姿をゆるく反映させた彼女を通して、物語はインド、いや世界でも有数の紛争地カシミールへとつながっていく。
そこでは、ティローの大学時代の同級生ムーサーが、卒業後に故郷へ戻り、カシミール武装ゲリラの闘士となっていたのだ。
一方、不気味に勢力を増していくのは、サフラン色のインコたち、ヒンドゥー至上主義勢力である(現実のインドでも)。
彼らの旗印であるサフラン色と、インド最大のサフラン産地であるカシミールの対比を考えると、あまりにも皮肉で哀しい。
一人称という権力
著者はこの作品を、できるだけ多くの人の声で語ろうと試みたのか、おびただしい数の登場人物が現れる。
その中で特に興味深かったのが、全登場人物の中で唯一、一人称「私」で語るガーソン・ホバートことインド政府官僚ビプラブ・ダースグプターだ。体制側の人間である。
インタビューで「彼だけが一人称ですね」と指摘されたとき、ロイは茶目っ気たっぷりに、でも少し困惑したように語った——「おそらく国家権力が彼にその権限を与えたのでしょう。(一人称を)止めようとしましたが、結局そうはいきませんでした」。
「我々の世界における日常は、茹で卵のようなところがある。表面の単調さは、内側にとてつもない暴力という黄身を隠しているのだ」と語る「私」は、(イスラーム教徒の)歌手ラスーラン・バーイーが歌う『ここにあった真珠が落ちて無くなってしまった、神さま』を聴きながら、「イスラーム教徒の遊女がこんなにも忘れがたくヒンドゥーの神に呼びかけることのできる時代があった」と物思いにふける(ちなみに、この曲にリンクするように、”前代未聞”の事態が同時進行するのだけど、それはぜひ本書を読んで確かめてほしい)。
学生時代にティローに初めて会ったときから、強く惹かれている彼は、自分の立場(ヒンドゥー高カーストの裕福な家に生まれたエリート)を含めて社会の矛盾や本質を無意識に感じとっていたのだろうか。
ラスーラン・バーイーの家は、1969年の宗教暴動で焼かれた。
もう一人、心に残ったのが物語冒頭に登場する「英語を知っていた男」だ。
アンジュムの古い客のようだが、名前は語られない。アンジュムにウルドゥー語の教養レベルの低さを指摘され、「英語を知ったからって賢くなるものかしら?」という言葉を投げかけられる。
二人のやりとりは、英語中心、西洋中心主義の世界に対するアンチテーゼだろうか。
無数の声、無数の言葉で語られる物語
原著は英語で書かれているが、インドのさまざまな言語や独特の表現、単語が飛び交う。
日本語訳である本書を読んだ時、翻訳という行為自体がロイの多言語的な世界観と呼応しているように感じられた。訳者パロミタ友美氏の力によるところも大きいが、この作品の持つ多言語性が、翻訳されることでかえって豊かに響くのかもしれない。
ロイのこうした語りの手法を他の南アジア文学作品と比較してみるのも面白いだろう。
スリランカの作家シェハン・カルナティラカのブッカー賞受賞作品『マーリ・アルメイダの七つの月』は、スリランカの内戦初期を時間軸に、被害者の”幽霊”という視点から、ブラックユーモア+ロック調の二人称という独自の語り口で、暴力のグロテスクさを突きつけた。
あるいはパキスタン出身の文学者サーラ・スレーリの自伝的小説『肉のない日』。言葉遊びやフェミニズム、インド・パキスタンの歴史、ウルドゥー語の詩の世界を万華鏡のように散りばめた美しい作品である。
一方、ロイは現在進行形のインドの現実を、無数の人々、無数のコミュニティ、無数の社会問題を通して伝統詩や歌からの引用も交えて描く。といっても、過度に壮大で叙情的というわけではない。目の前のものを淡々とスケッチしているような(でも高度に詩的な)語り口で、ときには不必要なまでの細かさや、そこから滑稽さが漏れ出すような笑いがある。
たとえば、アンジュムが育ての親となるザイナブが飼うヤギは16回も犠牲祭を生き延びてギネス級の記録を打ち立て、ティローの母親は、病床で「おかまたちに囲まれている気がするんだけど、そうなのかしら?」と未来を見通すように呟いたりもする。
対立も、混乱も、暴力も、愛も、希望も、笑いも、すべてを包み込んで、いつしか混ざりあっていく。
墓場の楽園、楽園の墓場
ティローが楽園ゲストハウスにやってきた日のことだ。
人生で初めて、ティローは自分の身体のすべての臓器が充分に収まったように感じた。
(『至上の幸福をつかさどる家』本文より引用)
これが、ティローにとっての幸福だったのかもしれない。
アンジュムの「墓場の宿屋」には、死と生の境がゆるみ、母親の胎内を思わせるような温かさがある。
ティローと、一緒にやってきた赤ん坊、ミス・ジビーン二世を歓迎するために、アンジュムがたくさん料理を用意するシーンは、まるでキリストの降誕を祝うクリスマスのご馳走のようだと思った(時期としてはインドでは真夏の五月で、メニューもイスラーム式であるが)。
墓場の宴は、この世界に「降誕」したミス・ジビーン二世を祝福するとともに、この世の楽園と呼ばれるほど美しいカシミールの地で「小さな子どもの歯のように地面から生える」墓石が悲しくオーバーラップしていく。
ふと、この物語に描かれる現代インドの姿を、細かな刺繍がびっしりと繍われた、一枚の美しいショールだと想像してみたくなった。もちろんカシミールの。
今この瞬間も、ほころび、傷つき、裂け、血と涙(と笑いも!)が幾重にも重なって染み込み、それでもなお無数の繍い手が現れては消えていく。そのずっしり重い一枚をさらりふわりと羽織り、まっすぐなまなざしと静かな微笑みをたたえながら歩く作家の姿が思い浮かんだ。社会活動家としても知られる彼女は、これからも行動する目撃者であり続けるだろう。
冒頭写真:手織りパシュミナショールにソズニ刺繍を繍う職人。完成までに1年という気の遠くなるような作業は1日7時間。そして合間にはお祈りを欠かさない。インド・ジャンムー・カシミール連邦直轄領の夏の主都スリーナガルにて。 ©撮影:在本彌生
原著 “The Ministry of Utmost Happiness” の16時間を超えるAudible版の朗読者は、なんとアルンダティ・ロイ本人。ぜひ聴いて、じっくりその世界を味わってほしい。
カシミール紛争研究者で、中央大学政策文化総合研究所・客員研究員・拓徹氏の詳細かつ深い解説も必読である。
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著者紹介
アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)
作家・批評家・活動家。インド・メーガーラヤ州生まれ。母親がケーララ州に創立した学校で学ぶ。その後デリーの大学に進学し、建築学を専攻。映画制作などに関わったのち、1997年のデビュー作『小さきものたちの神』でブッカー賞を受賞。社会活動家としてインドのさまざまな問題に取り組む。邦訳に『わたしの愛したインド』、『帝国を壊すために:戦争と正義をめぐるエッセイ』、『誇りと抵抗:権力政治を葬る道のり』、『民主主義のあとに生き残るものは』、『ゲリラと森を行く』など。20年ぶりに発表された2作目の小説『至上の幸福をつかさどる家』の邦訳は2025年に刊行。最新作は回顧録“Mother Mary Comes to Me”。