現代において世界で最も解決が困難とされる紛争の中心地、パレスチナのガザ地区。2025年6月にオレンジページから刊行された『ガザ・キッチン パレスチナ料理をめぐる旅』は、ガザの一般家庭のキッチンでの営みを記録したレシピ本です。
著者は、ガザにルーツを持つパレスチナ人作家・社会活動家のライラー・エル=ハッダードと、マドリードを拠点とする作家・研究者のマギー・シュミット。2009年からガザを訪れてリサーチを開始し、2013年に初版が刊行され大きな話題となりました。2016年に第2版、2021年に最新の第3版が刊行されて世界的ベストセラーに。今回出版された日本語版は、この第3版がベースとなっています。
アジア書堂では2025年11月の書籍レビューで、この本をとりあげました。それにあたって、レシピをもとに料理を作ったり、ガザ出身の方にお話を聞いたりするうち、この本がどのように生まれたのか、もっと知りたくなりました。今回は、編集担当の岡野桂さんと料理編集担当の池田裕美さんに出版の背景を伺います。
(インタビュアー:吉井朱美)
冒頭写真:<オリーブの根協同組合>(ゼイトゥーン・キッチン)の女性たち 『ガザ・キッチン パレスチナ料理をめぐる旅』p195より

『ガザ・キッチン パレスチナ料理をめぐる旅』
ライラー・エル=ハッダード & マギー・シュミット 著 藤井 光 翻訳監修
岡 真理 監修 オレンジページ 刊
出版のきっかけ——藤井光先生から紹介された一冊のレシピ本
——まずこの本を出版することになったきっかけについて教えていただけますか?
岡野さん: 会社としては、新規事業として翻訳書の出版を、昨年(2024年)から進めていまして、フランスのお菓子のレシピ本で『PARIS-KYOTO パリで生まれた和菓子のレシピ』と『Mori Yoshida Gâteaux モリヨシダの菓子』の2冊を刊行いたしました。
三冊目の企画を立てるにあたり、外国のレシピ本の情報を集めている時に、翻訳家の藤井光先生から、『ガザ・キッチン(”The Gaza Kitchen: A Palestinian Culinary Journey”)』という本があると教えてもらいました。パレスチナ料理のレシピだけではなく、食文化やガザ地区の暮らしに関しても書かれているということで、読んでみたいと思い、さっそく本を取り寄せました。
まず翻訳出版企画を検討する中で、本書に書かれている、食料や水といった生きていくうえで必要な物資も手に入りづらくなっているガザ地区で暮らしている人たち、一人ひとりの人生の物語に非常に引きつけられました。そして、この人たちの声を日本の読者に届けること、破壊されてしまっている文化や暮らし、風景の記録を日本語で残すことに文化的な意義文化も感じました。また、ニュースではガザ地区の食料不足など食に関する報道が日々なされていますが、ガザ地区についてもっと深く知りたいと考えている方が日本に多くいらっしゃるのではないかという確信もありました。
——藤井先生からは、どのような経緯でご紹介があったのでしょうか。
岡野さん: 藤井先生は移民作家の小説をはじめとして多くの文学作品を翻訳されていますので、以前から、外国の面白い本があったら教えてくださいとお声がけをしておりました。そのお薦めいただいた中の一冊が『ガザ・キッチン』というわけです。
——共同通信の記事※も拝見しましたが、藤井先生ご自身が、この本を早く翻訳して紹介したいという気持ちを強くお持ちだったということですよね。
岡野さん: はい。藤井先生は『物語ることの反撃: パレスチナ・ガザ作品集』(河出書房新社刊)の翻訳もなさっていますが、報道されるニュースを目にした時、自分はガザ地区について実際にはほとんど何も知らないということに気づいたと記事にも書かれていましたね。自分事として、ガザ地区についてもっと知りたいという想いから本を探しだし、『ガザ・キッチン』と出会ったそうです。邦訳がなかったため、日本語で読めるようになったらと強く思われたと伺いました。

出版の決断——リスクを超えた想い
——企画の段階では、社内でどんな意見があがりましたか?
岡野さん: これまで翻訳本を出してきた出版社ではないこともあって、しっかりと流通させられるのか、どの程度売れるのかといったリスクは商業出版である以上もちろん検討しました。それでも、今回急いで出版に踏み切ったのは、今この時に、ガザ地区のことを日本の読者に知ってもらいたいという想いからです。出版社として、読者に良い本を提供したいという気持ちは社員皆が持っていますので、この出版企画に挑戦できることになりました。
——翻訳書ならではのプロセスとして、例えば原著者とのやり取りなど、通常の書籍とは違うやり取りもあったかと思いますが。
岡野さん: 基本的には版権エージェンシーを介して、アメリカ合衆国の版元のジャスト・ワールド・ブックス様とやり取りをしていました。日本語版の出版については大変喜んでくださり、応援をしてくださいました。「出版記念イベントなどもぜひやってください」と後押しをいただきました。

翻訳・編集の工夫——レシピと物語を日本の読者へ
——実際に見たことのない食材や調理器具をどのように理解して翻訳されたのか、また、日本の読者が実際に作れるよう工夫などされたのでしょうか?
岡野さん: 翻訳本ではレシピの材料を日本で手に入りやすい食材に変更したりするケースもありますが、『ガザ・キッチン』の翻訳は、日本の読者向けにレシピに手を加えたり、大きな意訳をしたということはありませんでした。ただ、材料一覧や調理工程の記載は、日本の実用レシピ本で培ってきたレイアウトやデザインのノウハウを意識して、日本の読者が見やすいと思っていただけるように工夫をしています。
池田さん: 翻訳については、藤井先生のチームの表現をそのまま活かし、岡先生にもレシピをご確認いただきました。通常私たちが編集する一般的なレシピ本では、料理写真とレシピが並んで掲載されていますが、『ガザ・キッチン』では料理の写真がないレシピもありました。文字だけでレシピを想像するのは、先生方も我々もなかなか大変でした。
また、写真とレシピの表現が違うものもあるんですね。たとえばレモンが、レシピではくし形切りと書いてあるのに、写真では輪切りになっていたり。ただ、このレシピの背景が「どこどこさんちのお母さんが伝えたレシピ」というものなので、レモンの切り方などは大きな問題ではないと判断し、写真とレシピの表現とを揃えずにいるものもあります。
日本のレシピ本、特にオレンジページなどは、ネギの切り方から最後に振った粗挽き胡椒までしっかり書くんですけど、今回の本に関しては、レシピの背景が一般の家庭で作られているもの、ということで、原文にない表現を補足するようなこともしていません。そういう意味では、日本での家庭で作りやすい工夫はあえて加えておらず、ガザの家庭の「生のレシピ」をお届けしています。
——レシピ以外で工夫された点はありますか?
池田さん: 原書はお料理がたくさん並んでいる素敵な表紙なんですが、今回『ガザ・キッチン』は人々の物語であるということで、人物を表紙にしたレイアウトにしました。『ガザ・キッチン』の中には、料理以外にもこんな風に人々の暮らしを記録した写真がたくさん掲載されているんです。
そこに人がいて、日々の営みがあることが伝わるように、デザイナーと相談して、この表紙にしました。
レシピの再現——マクルーバを作ってみて
——レシピの再現などは行われましたか?
岡野さん: オレンジページでは掲載する料理の試作をしています。今回の『ガザ・キッチン』でも、翻訳出版の企画検討段階で、いくつかのレシピを試作してみました。その1つがマクルーバです。駐日パレスチナ常駐総代表部のnoteの記事で、食文化と一緒に作り方が紹介されているのを拝見していたので選びました。社内には、日本のパレスチナ料理のレストランでマクルーバを食べたことがあるという者もおりました。
池田さん: あとは東京・阿佐ヶ谷にある「コトラボ」というオレンジページが運営する体験型スタジオで、本書発売記念イベントを2回開催しました。その時に会場で、アラブ料理研究家の小松あき先生が本のレシピを日本で再現しやすく調整していただいたものを、作ってお出ししました。
——食べてみて、どのような感想を持たれましたか?
岡野さん: 小松先生には「フォガーイーヤ」や「セモリナ粉とバターのプディング」を作っていただきました。小松先生はアラブ料理の本※を書かれている専門家ですので、当たり前ですが、とても美味しかったです。実際に食べてみることで親近感もわいてきます。アラブ料理と聞くと、食べ慣れないと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、マクルーバは、日本人としては馴染み深い炊き込みご飯。「マクルーバ」という料理名の由来でもある、最後にひっくり返してお皿に移す工程は難しいですが、ぜひチャレンジして味わってみてほしいですね。
——私もレシピから料理を作ってみました。どことなく、地中海料理やイタリア料理のような雰囲気がありますね。
岡野さん: そうですね。本書で紹介されているガザ地区の家庭料理には、レモンやオリーブオイルを多用するレシピも多いので、地中海料理に近いものがあります。

コトラボでの出版記念イベント——食と講演で伝えるガザ
——コトラボでの料理教室についてもう少しお伺いしたいのですが、書籍の出版に加えて体験の場も提供されたということで、料理という切り口でガザの暮らしを伝えることについて、どのようなお考えで取り組まれたのでしょうか?
岡野さん: 出版記念イベントなので、本を知っていただくのが第一目的ですが、ガザ地区の料理は材料の面でも調理の面でも、家庭で再現するのはハードルが高く、取っつきづらいと思われがちです。そこで、料理教室の形式で本を紹介してみるのはどうかと、社内でアイデアがでました。
翻訳の藤井先生と、監修の岡真理先生にご登壇いただきました。ガザ地区がどういった事態になっているのか、何が起きているのかということをお二人に教えていただきました。そして、小松あき先生にガザ地区の家庭料理の実演調理をしていただきながら、料理や食材の解説を伺いました。本で紹介されている外国の料理を実際に作って、食べる体験をご提供できるのは、オレンジページならではないでしょうか。コトラボでの食事の体験と講演会を組み合わせたイベントを通して、ガザ地区に暮らす方々をテレビで流れるニュース映像の中の遠い存在ではなくなったのではないかと思います。
イベントは二回実施いたしましたが、多くの方にご参加いただけました。ガザ地区の家庭料理への興味関心から来てくださった方や、ガザ地区で起きていることに心を痛めていて岡先生の講演を聞きたいという方もいらっしゃいました。ガザ地区のお話しを聞き、ガザ地区の料理を召し上がってみて興味を深め、会場で『ガザ・キッチン』を購入してくださった方も多くいらっしゃいました。リアルな場で読者と本の接点を生みだすという意味でも大きな意義があったと思っています。
——参加者からはどのような反応がありましたか?
池田さん: 参加者の方の中には、そして、岡先生もおっしゃっていたんですが、深刻な飢餓が問題になっている中で美味しいものをいただくイベントに参加することに複雑なお気持ちを持たれた方もいらっしゃいました。涙を流される方もいらっしゃって。でも、「この美味しさを記憶して伝える、もしかしたら失われてしまうかもしれないレシピを記憶しておくことも大事なことなのではないか」というご認識を皆さん持たれたようです。イベントの開始時はちょっとしんみりしていたというか、複雑なお気持ちで参加された方もいらっしゃいましたが、皆さんで美味しくいただいて、とても意義のある会だったと思っています。

出版後の反響——書店、メディア、読者の熱い想い
——出版後の反響についてお聞かせいただけますか?
岡野さん: 大きな反響がありました。新聞や雑誌、ウェブ等でたくさんの書評を書いていただいております。びっくりしたのは、『ガザ・キッチン』を読むだけではなく、料理を作ったうえで書評を書いてくださっている方もいらっしゃったことです。翻訳家の青山南先生は、レシピに頻繁に登場するオリーブオイルに注目して『本の雑誌』に書評を書いてくださっています。
お電話で本書の熱い感想を寄せてくださる読者の方もいらっしゃいます。また、原書をご存じで、よくぞ日本語版を出してくれたとお褒めくださる料理家の先生もいらっしゃいました。
広報担当からは、プレスリリースを出した際に、独立系書店さんから直接「この本をどうしても扱いたい」と問い合わせをいただいたのが印象的だったと聞いています。書店さんの熱意をダイレクトに感じることができたと感激していました。
編集部にも、東京・駒込の「BOOKS青いカバ」の店主の小国さんが刊行時から取り扱いたいというご連絡をくださったのですが、最近も完売したというご報告とともに追加の注文をしてくださいました。
多くの方々に歓迎していただけて感激すると同時に、ほっとしてもいます。

今後の展望——これからも文化的な意義のある本を
——今後の翻訳書の刊行予定を教えて下さい。
岡野さん: 今、刊行が決まっている翻訳本はないですが、『ガザ・キッチン』のような本があれば、出版企画を考えたいと思います。やはり、海外の本にしかない魅力というのもあると思うので、今後も挑戦を続けていきたいですね。
長年家庭の食卓を見つめてきたオレンジページだからこそ実現した『ガザ・キッチン』の刊行は、食を通じて社会を知ることの意味を改めて考えさせられるものだと感じました。
料理には、その土地の土壌、気候、歴史、なぜその食材が選ばれたのかという環境的な必然性や人々がどう暮らしてきたかという文化のすべてが凝縮されています。食は社会を映す鏡であり、一皿の料理から、その地域の過去と現在、人々の営みが見えてくるのです。
アジア書堂では、食の視点でアジアの社会と人々の営みを伝える作品を、これからも積極的に紹介していきます。
訳注※1 「これこそ読まれるべき」、急ピッチで翻訳したのはレシピ本 食を知ってパレスチナを身近に、「ガザ・キッチン」は生きた証言文学 (共同通信=加藤朗)https://news.yahoo.co.jp/articles/c2bc7a84e5f7d0402fc609ad27a7e39cfafa3bb3
※2『はじめてのアラブごはん 手軽に作れるエキゾチックレシピ62 (旅のごはんBOOK)』小松 あき 著 イカロス出版 刊
写真/Laila El-Haddad and Maggie Schmitt, from The Gaza Kitchen (Just World Books, 2016.)