ライラー・エル=ハッダード & マギー・シュミット 著 藤井 光 翻訳監修
岡 真理 監修 オレンジページ 刊
「遠い異国での悲劇」でなく「味わえる記憶」へ

一般家庭のキッチンから、変わりゆくガザを見つめた10年の記録、記憶、勇気、希望。
すべてのはじまりは数年前、中東出身の友人がうっとりした目で話してくれたクナーファなる菓子だった。千夜一夜物語にも登場する伝統菓子で、サクサクした細い麺状の生地、じゅわっと染み込んだシロップの甘さ、なんともいえないサムナ(ギー)の香り、とろりとしたチーズの存在感が一体になって口の中に小さな天国が広がる。
パレスチナのガザに、特別なクナーファがあると知ったのは、それからしばらくしてのこと。麺状の生地を砕き、チーズの代わりにナッツをふんだんに使うクナーファ・アラビーヤ。いつかガザを訪れて食べることを夢見た。
だが、2023年10月、パレスチナ・イスラエル戦争が勃発し、「クナーファ・アラビーヤの都」ガザが壊滅的状況に直面しているという報道が連日なされるようになった。
世界に先駆けた日本語版
そんななかで、2025年6月に本書『ガザ・キッチン パレスチナ料理をめぐる旅』が日本で刊行されたことは、大きな意味と意義があると思う。
原著初版は2013年、最新の第三版は2021年に刊行されたが、実は日本語版は世界に先駆けている。
英語版の電子書籍は2026年3月に出版予定で、つまり第三版の内容を電子書籍で読めるのは、今の時点では日本だけなのである。これはすごいことではないだろうか。
翻訳監修は、東京大学大学院人文社会系研究科准教授の藤井光氏。以前、書籍レビューを紹介した、アルフィアン・サアット著『マレー素描集』の翻訳でも知られる。そして監修は、早稲田大学文学学術院教授で現代アラブ文学・パレスチナ問題研究者の岡真理氏だ。
ガザの人々の姿を「本人たちにもわかるように忠実に描く」渾身のルポ
本書は単なるレシピ本ではない。著者二人が実際にガザを訪れ、一般家庭の台所を回って話を聞き、一緒に料理を作り、市場、商店、農場、加工場、地元の料理店などを訪れ、生の声をまとめたルポタージュなのである。レシピの合間にはコラムページがはさまれ、栄養状態、電力事情、経済危機、漁業規制、水事情などなど、食をとりまく状況のすべてがガザを雄弁に語る。
だが、これらも既に、現在のガザの日常から離れたもの、その多くは破壊されてしまったものであることは想像に難くない。
西アジアの地中海沿岸に位置し、古代から重要な交易都市として栄えたガザ。1967年からイスラエルの実質的な占領下にあり、国境・領空・海上を支配され続けている。2007年にハマスが実権を握ると封鎖が始まり、幾度もの軍事衝突を経て、2023年10月以降は壊滅的な戦争状態に陥った。2025年10月に停戦合意に至ったが、予断を許さない状況が続いている。
著者たちは「ガザに暮らす普通の人々の姿を、本人たちにもわかるように忠実に描いて、日常生活に敬意を表す」姿勢で本書を書き上げた。ガザの人々にとって「自らのアイデンティティの最後の一線」は食であるという。私は本を読むだけでなく、実際に作って味わい、できればガザの人に話を聞きたいと強く思った。
ガザの料理の土台は「だし汁」
最初のレシピは「マラカ」と呼ばれる基本のだし汁だ。鶏肉、牛肉、ラム肉、ヤギ肉で作り(ベジタリアン版も紹介されている)、ガザだけでなく広く中東の料理でベースとなっている。私はインド料理のリサーチをライフワークにしているが、インド料理には、だし汁の概念が希薄なので、日本ではなじみの深いだし汁文化が、中東に存在することに親しみを感じた。面白いのは、マラカには、インド料理でもおなじみのさまざまなスパイスが入ることだ。

シナモン、カルダモン、黒こしょう、クローブ、ナツメグなどのスパイスが入っただし汁「マラカ」をラム肉で作ってみた。
本書にこうある。「何世紀にもわたって、東南アジアからヨーロッパへの移動の中で世界の経済を動かしてきたスパイス類は、すべてガザを通っていた」と。つまり、マラカにはガザの地理的位置と歴史が深く刻み込まれているのである。
「周辺地域よりも鮮やかで、スパイスが効いていて華麗」だというガザの料理は、「交易路の結節点」ならではの豊かさが特徴らしい。カラフルなサラダ、さまざまな煮込み料理やパン類はもちろん、「パレスチナの漁業とシーフードの伝統を保存する最後の砦」といわれる魚介料理のバリエーションの多さに驚く。
ガザ出身のアスマーさんに聞く
根気よく探していたら、2024年後半にガザからシドニーに移住したアスマーさんの記事を見つけた。私が拠点とするシドニーで、彼女はガザの状況を多くの人々に知ってもらいたいという気持ちから、自宅でYafa Sweetという焼き菓子工房をはじめている。
彼女にさっそく連絡を取り、お宅に伺った。
「コーヒーがいい?それともティー?」
出迎えてくださったアスマーさんにそう聞かれ、本書で紹介されているセージ風味の紅茶「シャーイ・ビル・マラミーヤ」について質問してみると、「毎朝飲むのがそのお茶よ」とにっこり笑った。
真っ赤なホーロー小鍋でお湯を沸かし、ティーバックとドライセージを煮出す。
初めて飲むセージ風味のお茶は、赤みがかった色が透明なグラスによく映えて美しかった。さわやかだけど、少しくぐもったようなアーシーな香りはどこか懐かしく、気持ちがゆったりと落ち着く。

孔雀の絵が描かれた紅茶用ホーロー小鍋。セージを煮出すと、紅茶が赤く色づく。
パレスチナを含めて中東に育つセージ(マラミーヤ)はグリークセージで、調べてみると、私たち日本人になじみのある、よもぎや、樟脳と共通する成分が含まれているという。
遠い異国の街の朝の香りが、私たち日本人の記憶の奥底に香りとつながっている、そう知ることで、不思議な親しみを感じた。
三つの宗教が分かち合うお菓子カイク
お茶と一緒に、アスマーさんが焼いたお菓子をいただく。本書にも出てくる「特別な日に作る デーツあん入りリングクッキー カイク」もその一つだ。

アスマーさんが焼いたカイク。彼女によると、祝日だけでなく普段でもよく食べる、皆が大好きなお菓子だという。
輪っかになった形が可愛らしいカイク。甘ったるいのではと思ったデーツあんは、意外にもさっぱりした味わいだった。オレンジブロッサムウォーターの柑橘系の香りや、温かみのあるスパイスの香りがほのかなアクセントになっている。しっとり柔らかく、ほろっとくずれる素朴な食感やゴマの風味もいい。
このお菓子は、イスラム教だけでなく、キリスト教の祝日に食べられるもので、たくさん作って近所に配るものだと本書にも書かれている。そして実はユダヤ教でも大切なお菓子なのだ。同じお菓子を食べている人々がなぜ⋯⋯やるせない気持ちがあふれてくる。
アスマーさんは、お母さんが焼いてくれるお菓子の甘い香りが、子どもの頃の幸せな記憶につながっていると話してくれた。その思い出が今、故郷から遠く離れて暮らす元気の原動力になっているように感じた。
そして、冒頭で触れたクナーファ・アラビーヤについても聞いてみた。アスマーさんはとびきりの笑顔になって、「あれはガザじゃないと食べられない特別なお菓子」と言った。なぜならクナーファは、ガザの菓子工房で作る大きな型で焼かれたものを切り分けてもらい、大勢で食べるのが醍醐味だからと。家族との幸せな思い出が詰まっているのだ。
本書には菓子工房のレシピと、自宅でも作れるレシピの両方が紹介されているので、興味のある人はぜひ挑戦してほしい。
唐辛子とディルがガザの味
アスマーさんに、ガザならではの味とはなにかと質問してみると、本書にもあるように、唐辛子とディルの組み合わせは文句なしにそうだと話してくれる。興味を持っていた発酵唐辛子ペースト・シャッタは、どの家にも常備されていると説明しながら、冷凍保存しているものを見せてくださった(しかも少し分けてもくださった!)。

発酵唐辛子ペースト・シャッタには生の唐辛子を使うのでいたみやすい。本書ではオリーブオイルを注いで保存する方法が紹介されている。アスマーさんのお宅では冷凍保存。本書レシピと違ってより刺激的な唐辛子の種入りバージョンだ。
翌朝、自宅でシャッタを試してみた。パンに塗り、オリーブオイル、チーズ、ガーリック、ディルをのっける。地中海を感じるコンビネーションだ。深みのあるシャッタの辛さがクセになる。
本書によると唐辛子は「生育が早く、ほとんど水をやる必要がない」地元の重要な作物だという。でもそれだけでなく、元気がみなぎってくるような刺激的な味わいを人々は楽しんでいるのだろう。
味わえる記憶として
都市が破壊され、貧困と飢餓で苦しむ土地では、料理どころではないのではと感じる人もいるだろう。でも私は「遠い異国での悲劇」でなく「味わえる記憶」としてガザの料理に敬意を払いたい。
著者のこんな言葉が心に刺さる。
この本には新たな、悲劇的な役割が与えられてしまった。ガザの人々自身のために、その食の伝統を記録するという役割だ。ガザの家庭はこの伝統を若い世代に継承できなくなってしまった。ひとえにその手段がなくなってしまったからだ。
『ガザ・キッチン パレスチナ料理をめぐる旅』本文より引用
ガザの復興において、この本は必ず希望の道しるべとなるはずだ。侵略と暴力と破壊を繰り返してきた人間の歴史の中で、食べること、食文化とはなんであるのか、どうやって私たちは、自分たちの尊厳と共にそれを守っていかなければいけないのか。それはガザだけの問題ではないし、遠い異国の話でもないのだから。
最後に本書のレシピから作った料理を列記しておこう。
まずは「ダッガ」(ガザ風トマトとディルの辛味サラダ)と、焼きトマトとキシク(小麦と混ぜて発酵させた保存用ヨーグルト)のサラダ「サラティトゥ・キシク・ウ・バンドゥーラ・メシュウィーヤ)。
アスマーさんに取材後は、最もガザらしい料理と紹介されている「スマーギーヤ」というシチューにも挑戦した。彼女の話では、お祭りや結婚式で親戚が集まって作る料理だという。マラカ、唐辛子、ディルはもちろん、豆や野菜や肉がたっぷり入った栄養満点のごちそうである。

スイスチャードとひよこ豆と肉のシチュー「スマギーヤ」。ガザならではの食材赤タヒーナ(赤いごまペースト)を使うが、本書のアドバイスに従って白タヒーナと胡麻油で代用。とろみづけがうまくいかなかったのだが、本来はもっととろっとした料理だと思う。
そして今度は「サマク・マシュウィー・カラク・カラク (魚の開きで作る、怖いほどおいしいマリネ)」を作ってみようかな。なんといっても名前がいい。レシピの横の写真で紹介されている、釣り小屋レストランのウスマーンさんの誇らしげな表情も美味しさを物語っている。
著者紹介
ライラー・エル=ハッダード(Laila El-Haddad)
クウェート生まれのパレスチナ人作家、ジャーナリスト、社会活動家。2003年から2007年まで、アルジャジーラ英語版ウェブサイトのガザ特派員を務めた。著書に『Gaza Mom: Palestine, Politics, Parenting, and Everything In Between』(2010)、共編書に『Gaza Unsilenced』(2015)がある。マギー・シュミットとの共著『ガザ・キッチン パレスチナ料理をめぐる旅』は2013年の初版以来版を重ね、2025年に日本語版が刊行された。
マギー・シュミット (Maggie Schmitt)
スペインを拠点とする作家、研究者、翻訳家、教育者、社会活動家。ハーバード大学を卒業後、マドリード自治大学で学び、さまざまなメディアで活動中。ライラー・エル=ハッダードとの共著に『ガザ・キッチン パレスチナ料理をめぐる旅』がある。
写真情報 : 自宅で焼菓子工房「Yafa Sweet」を営む、ガザ出身のアスマーさんが焼いたカイク。セージ風味の紅茶を添えて。