チベットの羊飼い一家の日々を描いた一幕のリアルな夢のような映画
チベット映画の先駆者ペマ・ツェテンがふるさとアムド地方の大草原を舞台に撮った代表作。
2023年5月に53歳で惜しくも早逝した、チベット出身の映画監督ペマ・ツェテン(1969年~2023年)。2021年に彼の監督作品のなかで初めて日本で一般公開され、第20回東京フィルメックス最優秀作品賞を受賞したのが今回紹介する「羊飼いと風船」(2019年)だ。
大草原の広がるアムド地方
舞台はチベット。
といってもポタラ宮で有名なラサやヒマラヤ山脈のある中央チベットではなく、より北東に位置するアムドと呼ばれる地方だ。中国の行政区画で言えば青海省にあたる。実際、「羊飼いと風船」の画面に映し出される風景は、それまでわたしのイメージしていた乾燥した高原の岩砂漠のようなチベットのそれとは大分違っていた。
どこまでも広がる大草原。視界を遮るものはたおやかな緑の丘の連なりぐらいで、木らしい木はどこにも生えていない。
中型バイクで野中の一本道をかっ飛ばす羊飼い。5年前に愛馬を売り払って買ったバイクだ。彼の膝元には借りてきた種羊が縛りつけられている。
そんな映像を見て、正直、チベットというよりモンゴルみたいだと思った。調べてみると青海省にはモンゴル族も多く住んでいて、彼らはこの地を高地モンゴル(デート・モンゴル)と呼ぶのだそうだ。
ツェテン監督自身、青海省は青海湖(中国最大の湖だ)のほとりにある海北チベット族自治州の出身で、撮影は彼の故郷でも行われた。
湖と砂丘を舞台にした印象的な場面があるが、あれは青海湖なのだろう。ひと言にチベットといっても広く、色々な風景があるものである。
時代の変化と羊飼いの夫婦
簡単にあらすじを述べる。
時代は80年代初頭、中国で産児制限を命じる一人っ子政策と市場経済を導入する経済開放政策が始まったばかりの頃だ。
主人公は羊飼いドルカル(ソナム・ワンモ)とその妻タルギェ(ジンパ)の一家。ふたりには既に3人の子があり、タルギェは新たな妊娠を望んでいなかった。3人の息子たちはまだ幼く手がかかる上、ただでさえ家計に余裕もないのに、4人目からは罰金も生じるためだ。
ところが政府から配布された貴重なコンドームを何も知らぬ子どもたちに風船がわりにされて、彼女は避妊に失敗し、望まぬ妊娠をしてしまう。
タルギェは家族の将来を考えて堕胎を希望するが、夫ドルカルはラマ(高僧)のお告げを信じ、生まれてくる赤子は、亡くなったばかりの自分の父の生まれ変わりに違いないから、絶対に産んでくれという。タルギェは深く悩み、ある決断をする……。
そんな物語だ。
80年代になっても前世や来世、転生を信じ、信仰心をもって生きる彼らの姿が妙に新鮮だった。農村部のチベット族は今なおそうなのだろうか。
ドルカルの父は「オン・マニ・ペメ・フム」と四六時中、小声で真言(マントラ)を唱えており、孫を亡き妻の生まれ変わりだと言い、転生の有り難さを家族に説く。
開明的な女医に影響され、堕胎手術を考えるタルギェにしても、やはり信心ゆえの逡巡がある。しかも町の中学校に通う長男にまで手術を反対されてしまう。誰よりも近代的な教育を受けているはずの長男まで、愛する祖父の転生を心から願っていたのだ。
一幕のリアルな夢のような映画
多くの現代人にとってにわかには信じられない世界だが、気づけば、映画を観ているこちらまでその世界に引きずり込み、主人公達のすぐ隣にいるような気分にさせる力がこの作品にはある。
手持ちカメラによる撮影が生む臨場感もあるのだろう。たとえば狭く薄暗い家の中で羊肉を肴に酒を呑むシーンなど、彼らと同じ卓を囲んでいるような気がして愉快だ。羊の種付けのシーンも非常に迫力がある。
だがその一方で、タングステンフィルムのような、やや青みがかった大草原の映像には、どこかこの世の出来事ではないような浮遊感が漂う。時おり挿入される、光と影を印象的に用いた幻視めいたシュールな場面も、民族楽器を使用した控えめなBGMも夢のような雰囲気を醸し出している。
近代と現代または信仰と科学の衝突、女性の権利といったシリアスな社会的テーマも大切な作品なのだろうが、一幕のリアルな夢を見ているような不思議な感覚がとにかく印象に残り、見て良かったと思った。監督の小説も少し読んだが、別世界に行って帰ってきたような読後感には本作と通じるものがある。
まずは劇場公開時の予告編を是非ご覧頂きたい。
なお次回も、本作の脚本を元にしてツェテンが記した小説「風船」の収録された短編集「風船 ペマ・ツェテン作品集 」(2020年、大川建作訳、春風堂書店)のレビューを予定している。お楽しみに。
映画『羊飼いと風船』
公式サイト:https://www.bitters.co.jp/hitsujikai/
ペマ・ツェテン 監督
ソナム・ワンモ、ジンバ 主演
第20回東京フィルメックス最優秀作品賞、第76回ヴェネチア国際映画祭 Sfera 1932 Award スペシャルメンション、第23回上海国際映画祭 最優秀監督賞/最優秀脚本賞
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