紀蔚然 著 舩山むつみ 訳 文藝春秋 刊
台湾発王道ハードボイルド推理小説
台湾社会を色濃く反映しながら、大学教授から転身したというユニークな経歴を持つ私立探偵の奮闘を描いたハードボイルド好きにはたまらない一冊。
劇作家と大学教授として成功していた主人公の呉誠はひょんなことからある日、私立探偵になる決心をする。最初の依頼は夫の異変の正体を突き止めて欲しいというものだった。しかし、呉誠はこの依頼に応えた後、ある連続殺人事件の容疑者として逮捕されてしまう。
逮捕後、呉誠は自らの潔白を証明するために真犯人を見つけ出そうと躍起になる。果たして呉誠は釈放され日常を取り戻すことができるのか?
ユニークな個性の主人公
呉誠は劇作家と大学教授として成功していたが、パニック障害と鬱も抱えていた。ある日、酒癖の悪さから失態を犯してしまい、私立探偵になることを決心する。探偵として鋭い観察眼を光らせるだけでなく、自身の内に抱える闇が他人の不安や恐怖に共感しやすくしているといえる。やはり人は何かしら負の側面があるからこそ人間性に深みや味わいが増し、魅力的に映るのだろう。
そして呉誠は一人称「俺」による独白を貫き、言葉も悪く、ついつい歯に衣を着せぬまま思ったことを口に出す。最初は、どこか行儀の悪さのようなものを感じてとっつきづらかったが、読み進めていくにつれて彼の独特な口調が物語のテンポにいいアクセントを利かせていることが分かり愛着まで感じるようになった。
突然不眠症に陥って以来、物事の本質を見分けられる「秘密の目」を持つようになったというエピソードも面白い。
台湾社会を色濃く反映
本書には台湾社会の活気が目に浮かぶ描写が散見される。例えば、次の一節。
六張犁は新しくもなければ、美しくもないが、雑然としたなかに生命力があふれている。人の流れはひっきりなしに続き、通りには商店やレストランが並び、あちこちから屋台の売り声が聞こえてくる。どこも忙しくてにぎやかだ。
(『台北プライベートアイ』本文より引用)
まるで台湾に実際に旅したような気分に浸れる。都会の喧騒から商店街の路地裏の活気まで実に台湾のさまざまな面を教えてくれる。
個人的には台湾は料理が美味しそうだと思っていたが、本書には美味しそうな屋台料理がいくつか登場する。例えば、濃厚なスープと柔らかい牛肉の組み合わせがやみつきになる「牛肉麵」や、胡椒で味付けした肉餡を包んだ饅頭を焼き上げた「胡椒餅」など。
また呉誠の周りには劇団員、警官、タクシー運転手、マスコミなどさまざまな階層の職業の人物がいる。その多様なバックグラウンドを持った登場人物たちからは台湾社会の多様性が浮き彫りになる。
王道のハードボイルド推理小説
一見味気のない呉誠の独白はハードボイルド作品に必要不可欠な冷静で客観的な視点をもたらす。時に感情的になることもあるのだが、考えてみると実に的を得たことを言っている。そして呉誠が巻き込まれる事件は台湾社会の闇を風刺しており、「現在の台湾」がどのような社会であるかを訴えかけている。あえて主観や批判を挟まず、叙事的な描写により物語のリアリティが増し、推理小説としてもより魅力的なものとなっている。
著者紹介
紀蔚然(キ・ウツゼン)
1954年、台湾、基隆生まれ。輔仁大学卒業後、アイオワ大学で博士号取得。現在、台湾大学演劇学部の名誉教授。2013年、「国家文藝賞」演劇部門受賞。世界的ヒット作『台北プライベートアイ』(原題『私立探偵』)はフランス、韓国、イタリア、トルコ、タイ語版および中国語簡体字版などに翻訳されている。
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