高橋孝信 訳 平凡社 刊
恋と戦いの花が咲く、古代タミルの豊かな日々
2000年前の南インドに生きた人々が歌った数多の詩から、高度な文化や生き生きとした暮らしの様子、現代人と変わらぬ営みや感情を味わってみよう。
本書は、紀元後1〜3世紀に、南インドのタミル・ナードゥ州とケーララ州にまたがる地域で、タミル語で詠まれた2300以上の詩を8つの作品集に分け、それを一つにまとめた『エットゥトハイ』(八詞華集)のうち、176の詩を選んだものである。
この時代の文学作品は、サンガム文学と呼ばれている。サンガムとは、古代王朝のパーンディヤの首府マドゥライにあった宮廷文芸院を指し、人々は詩論を含んだ文法書『トルハーピヤム』を学びながら、競うように詩を作って披露したという。『エットゥトハイ』を例に挙げると、詩人の数は470人にものぼり、女性もいたようだ。また、『パットゥパートゥ』(10の長詩)という選集もあり、『エットゥトハイ』と合わせて二大詞華集とされる。
詩の内容は大きく2つに分けられる。アハムと呼ばれる恋愛詩と、プラムと呼ばれる英雄詩だ。アハムは男女(ヒーローとヒロイン)の愛を通した人々の感情、プラムは王や、族長、戦士を中心に戦いと題材とする。割合は8対2で圧倒的に恋愛詩が多いのも興味深い。
5つの土地を舞台に繰り広げられる、複雑に様式化した恋愛模様
アハムの一番の特徴は、山地(クリンジ)、海辺(ネイダル)、荒野(パーライ)、牧地(ムッライ)、田園(マルダム)という5種類の地域(地勢)を舞台に、俳句の季語のように、その土地・季節・動植物を表す言葉が出てくると、それだけで恋の局面までわかる、高度に様式化されたしくみになっていることである。地域名は文学のジャンル名でもあり、それぞれがその土地に固有の花の名だという。
簡単に説明すると、山地や海辺は出会いや結婚前の様子、荒野は駆け落ちや別れ、牧地は夫を待つ妻、田園は遊女のところに向かう夫に不機嫌になる妻が主題になる。
たとえば、こんな詩がある。
海よ! おまえはいったい誰のために悩んでいるの。
美しく大きな入り江では
プーリ国の人々の、頭の小さい山羊の群れが散ったかのように
魚を啄ばむ鷺が木立のあちこちに散り、白い花をつけたターライ樹が波にゆれる。
しんとした夜も耳を傾けているのかしら、おまえの叫びに。
(『エットゥトハイ古代タミルの恋と戦いの詩』収録「クルンドハイ」163番 Ammūvaṉ作より引用)
地域は海辺(ネイダル)、植物はターライ、鳥は鷺(サギ)で、結婚前の女性が恋の苦悩を歌っている。他の詩では、山の穀物畑でヒロインが鸚鵡を追い払っている最中にヒーローに出会ったりするなど、サンガム文学では、自然を舞台にしたおおらかな自由恋愛が描かれているのが印象的だ。
「肩の広さ」が女性の美の象徴?!
面白いのは、「肩の広さ」が女性の美を表す表現として、たびたび登場することだ。肩が広いとは、つまりウエストが細いという意味なのかもしれないとも思ったが、実際に肩幅が広いことを指すらしい。帰宅中のヒーローに御者が、「晩餐を作る奥方の柔らかく広い肩で眠ることを望む貴公よ!」と言う詩まであり、男女が逆なのではと驚いた。
自分の乳房を切り取る=究極の怒りを表現
ならば男性はひ弱なのかというと、そういうわけではなく、英雄詩には、勇敢でたくましい戦士の姿が描かれている。だがそこでも、女性の強さともいえるべき、独特の価値観が印象に残った。
血管は浮き上がり、腕の肌は乾き、痩せて弱々しく
お腹は蓮の葉のように偏平な年老いた女、
あの女の息子は戦いに心乱して逃亡した、と皆が言ったとき、
「激しい戦いに心敗れ逃亡したのなら、
あの子が吸った私の乳房を切り取ってみせましょう」と言って怒り、
手に持った剣で、横たわる屍を裏返しつつ
赤く染まった戦場をくまなく探し回っていた。
そして、息絶えて、ばらばらになって横たわる息子の屍を見つけ、
喜んだ。息子を産んだあの日よりも。
(『エットゥトハイ古代タミルの恋と戦いの詩』収録「プラナーヌール」278番 Kākkaipāṭiṉiyār Nacceḷḷaiyār作 より引用)
英雄詩の中でも特に有名なものだという。自分の乳房を切り取るというのは激しすぎる気もするが、これは後のタミル文学にも登場する重要なモチーフであり、タミル女性の究極の怒りの表現といえるのかもしれない。
髪に花をつけて出陣する戦士たち
さて、英雄詩は、恋愛詩のように詩の舞台を5つの地域に分け、それぞれの土地を表す言葉で局面を語るスタイルをとらない。だが文法書『トルハーピヤム』によれば、戦いの種類によって7つのジャンルに分けられるという。たとえば「敵国の牛の掠奪」というジャンルは「ヴェッチ」(Indian ixora、和名ベニデマリ)といったように、各ジャンルが花の名前になっており、戦士たちは、戦いのジャンルを示す花と出身地の花をつけて出陣したとされる。
(前略)…
王の縮れた黒い束髪には、見ただけで敵が逃亡するような
大きく育った椰子の若木の先端の、針のような銀色の葉に
ヴェッチの大きな花と、ヴェーンガイとを組み合わせ
見栄えするようにつけられている。
(後略) …
(『エットゥトハイ古代タミルの恋と戦いの詩』収録「プラナーヌール」100番 Auvaiyār作 より引用)
ヴェッチはオレンジ色の鮮やかな小さい花が集まってアジサイのように毬状に咲く。戦場でもかなり目立ったことだろう。
恋と戦いが古代文学の2大テーマであるということは、今も昔も、戦いはやはり人間の本質ということなのだろうか。英雄詩は、英雄を讃えるだけでなく、戦争の惨状や負けた側や残された家族の姿も歌い、世の儚さや、厳しさも伝えている。
人気タミル映画にも引用される英雄詩
実は、サンガム文学は、タミル社会のヒンドゥー化が進む中で、愛の詩を情熱的に歌うスタイルが世俗的であると軽視され、忘れさられていた時代も長かったという。19世紀に再発見される形で研究も進み、またタミル人独自のアイデンティとして見直され、その伝統は現代もさまざまな形で息づいている。最近では、タミル語のベストセラー小説『ポンニ河の息子(Ponniyin Selvan)』を映画化して日本でも公開された『PS1 黄金の河』、『PS2 大いなる船出』の2部作のうち、後編で英雄詩「プラナーヌール」の一つが劇中歌として使われたことで話題を呼んだ。
古代タミル料理はどのようなものだったのか
最後に『エットゥトハイ』に登場する古代の食生活についても少し紹介したい。
恋愛詩では、新妻が一生懸命料理を作る姿や、漁師が魚やエビを干す様子、山地(クリンジ)に胡椒が実る様子や、魚料理が登場する。一方、英雄詩では、焼いた肉と椰子酒がたびたび歌われる。米や雑穀、ギー(バター油)や凝乳(カード。ヨーグルトのようなもの)はどちらにも出てくる。当時の食生活をいろいろ想像しながら読むのも楽しい。
『エットゥトハイ 古代タミルの恋と戦いの詩 』は、東京大学名誉教授で、古代タミル語文学研究の第一人者である高橋孝信氏が翻訳し、詳細な解説も添えられている。
訳者紹介
高橋孝信(たかはしたかのぶ)
1951年水戸市生まれ。東京大学名誉教授。専攻はタミル文学。2018年、タミル文学研究の功績により中村元東方学術賞を受賞。主な著書に『エットゥトハイ 古代タミルの恋と戦いの詩 』、『ティルックラル 古代タミルの箴言」 (東洋文庫 660)、タミル古典学習帳: 『パットウパーットウ(十の長詩)』訳注研究 (インド学仏教学叢書)がある。
写真情報:
Kalyan Varma, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons
12年に1度咲くというクリンジの花と、その地に棲息する絶滅危惧種の山羊ニルギリタール