ジェーン・ベヤジバ 著 蛭川 薫 訳
7人と一匹が織りなす心温まるヒューマンドラマ
サクサクと読み進められる軽快さに加えて、読んだ後のずっしりとした読了感。タイを好きにならざるを得ない現地感。魅力的な登場人物たちの人生を通して描かれる本当の幸せの形。そのどれもがこの小説を唯一無二の名作に仕上げ、現代人が読むべき一冊と言える。
タイのある狭い路地裏を舞台に個性あふれる登場人物たちが互いに関係し合いながら成長していく様をコミカルに描いており、次の展開が気になりついついページをめくる手が止まらなくなる。軽いタッチの展開はスピーディ―だが、さまざまな伏線回収があり読んだ後に確かな読了感がある。
謎めいた高齢のカップル。独り身でアル中の男性。本当に愛されたいと望むモデルの女の子とタイ式マッサージの施術師である母。その母に片思い中の個性的な外人男性。新たな恋愛に夢中な傷を負った同性愛者。戻ってこない飼い主を待ち続ける忠犬。
このような魅力あふれる登場人物たちはそれぞれに苦悩を抱えながらも、愛する気持ちを忘れずに懸命に生きている。環境に恵まれなくても一縷の望みを信じて前を向いて生きればきっと神様はご褒美を与えてくれる。僅かな接点から交差しつながり出す7人と一匹の人生に果たして神様は微笑んでくれるのか?
タイの活気とホスピタリティが感じられる情景描写
本書の中には実際にタイに行った気になる一節が度々登場する。
ミッシェルは今、バンコクの道路に夢中だ。バンコクでの出来事すべてが大好きな彼にとって、行先がわからず、しかも時間通りに到着できるかどうか予測がつかない大渋滞も、外国人には何の役にも立たないタイ語の道路標識も、タイという国をピリッとおいしく味付けするスパイスそのものだった。
(『824 月明かりのロンド』本文より引用)
私はタイに行ったことはないが、漠然と観光で有名なビーチやタイ料理の印象が強かった。本書を読んでタイの不思議な魅力はそれだけに留まらないことに気づかされ、実際に行ってみたくなった。特にタイ人の気さくな人柄やホスピタリティは開放的な気候と相まって、外国人観光客を惹きつけ、異国情緒あふれる街並みや風光明媚な観光名所に「スパイス」を加えている。
どんなときも笑顔を忘れず、裕福でなくても明るく常に前向きに生きるタイ人の姿は何とも微笑ましく、明日を生きる活力を与えてくれる。そんなタイ人の人柄に惹かれて毎年多くの観光客が押し寄せるのだろう。
さまざまな人生を通して問う真の幸せの形
登場人物は皆、何かに秀でているわけでも特別裕福でもない一般人。それぞれに多かれ少なかれ暗い過去を抱えながら、強く逞しく生きている。そうやって生きているといつか報われる日が来ると信じて。彼らの生き方や台詞からは人生における幸せとは何かという本質的な問いについて考えさせられる。例えば、次の台詞。
ルントーによると人間にとって最も大切なのは尊厳らしい。それがあって初めて顔を上げて歩けるのだという。
(『824 月明かりのロンド』本文より引用)
本書の登場人物はどんな苦境に陥っても、決して犯罪など人の道を外れたことをしない。「尊厳」を忘れてしまっては、人は真っ当な人生を送れなくなる。恵まれた環境でなくてもどこか応援したくなる本書の登場人物に共通しているのは、「尊厳」を忘れていないということなのかもしれない。
スクウィット、確信を持って言えるのは、財産や名誉では本当の幸せは手に入れられないということ。
(『824 月明かりのロンド』本文より引用)
そしてよく聞くことだが、本当の幸せは金銭的な裕福さと必ずしも比例しないということ。本書の登場人物は他人に羨望の眼差しを向けたり、誰かを羨むことなく「自分らしい幸せ」を最後まで追求している。その姿こそ何より尊い人間のあるべき姿なのではないか。
余談になるが、本書の著者は生まれつき脳性麻痺を患い、現在も車椅子で生活している。そのようなバックグラウンドから、逆境の中で見出す希望や夢といったテーマを描きたかったのかもしれない。
著者紹介
ジェーン・ベヤジバ(Jane Vejjajiva)
1963年、ロンドン生まれ。3歳でタイに戻り、バンコクで育つ。タイのタマサート大学でフランス文学を学んだ後、ブリュッセルに留学し、英語の翻訳と通訳を習得する。代表的な訳書に『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』のタイ語版など。また小説家としての代表作『タイの少女カティ』は、9か国語に翻訳され、映画化されるなどタイ人に幅広く愛されている。1999年に芸術文化勲章シュヴァリエ、2006年に東南アジア文学賞を受賞。