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書籍レビュー「南光(アジア文芸ライブラリー)」

朱和之 著 中村加代子 訳 春秋社 刊

ライカで見つめた「125分の1秒に、62年6ヶ月と12日」の物語

影がしのびよる時代のなかで、あたたかなまなざしを忘れず、過ぎゆく瞬間を切り撮り続けた南国の人がいた。フィルムに閉じ込められた歴史と時間が今蘇る。

朱和之の『南光』は、日本統治時代の台湾に生まれた実在の写真家・鄧南光の人生を中心にした長編小説で、彼の作品ではこれが初めての邦訳となる。2020年、台湾の芸術家を主人公とする長編小説に贈られる羅曼・羅蘭(ロマン・ロラン)百萬小説賞を受賞。

シャッターを切る「きみ」が生きた時代

南光(なんこう)」とは、この物語の主人公である台湾の写真家、鄧騰煇(とうとうき)(1908–1971)が、かつて台北で営んでいたドイツ製高級カメラ専門店の名前であり、彼の愛称でもある。いや、写真家としても鄧南光という名前の方がよく知られているようだ。

この物語は、「きみ」、つまり南光が、終生愛したライカのシャッターを切るところから始まる。レンジファインダーカメラの代名詞であるドイツ製のカメラで、魔法のように光と影を操る写真家が世界を、空間を、時間をどう「切り撮る」のか、スマホカメラ時代の私たちにはとても新鮮だ。一瞬にしてその世界に引き込まれた。

鄧南光は、台湾の客家人の集落で、現在では華やかな香りの東方美人茶の産地としても有名な北埔で生まれた。豪商の四人兄弟の三男で、中学から日本へ内地留学する。これは実家が裕福だったことだけが理由ではない。日本統治時代の台湾にはこんな状況があったようだ。

『南光』本文より引用

その後、法政大学へ進み、カメラ部に所属。この頃、友人から、十ヶ月分の生活費にもあたる中古のライカAを買う。在学中に郷里の婚約者と結婚、卒業後は台湾に戻り、台北で「南光写真機店」を始めるも、戦争の影は日増しに濃くなっていく。フィルムの入手も難しくなり、南光は総督府の登録写真家にならざるを得なくなった。

台湾、カメラ、そして日本の歴史がひとつになる物語

この物語は台湾の歴史でもある。南光が生まれるほんの3年前、1905年から始まった日本統治時代は、1945年、日本の敗戦によって終わりを迎える。その後、台湾は中国国民政府に接収され、1947年には二二八事件が起こる。さらに1949年からは戒厳令が敷かれ、白色テロと呼ばれる政治的な弾圧が1987年の戒厳令解除まで40年近く続いた。

この物語は写真とカメラの歴史でもある。序章で「きみ」だった主人公は、次の章では、南光の本名である「鄧騰煇」となり、その後、家族や同時代の写真家、李火増、彭瑞麟、張才、李鳴鵰、郎静山などにも視点を変えながら、物語は多重露光のように進んでいく。さまざまなクラシックカメラ、また木村伊兵衛など日本の写真家の名前も登場する。カメラや撮影、暗室作業の細かな描写は、写真好きにはたまらないだろう。大学でメディアを専攻した著者は、カメラの基礎や暗室作業も授業で学んでおり、さらにこの作品のためにプロの暗室工房でも勉強し直したという。

そして、この物語は日本の歴史でもある。華やかでモダンな東京の様子は光に満ちている一方、日本統治時代の台湾は、後半には皇民化政策と呼ばれる台湾人の日本人化も進められ、重苦しさを増していく。南光も吉永晃三という日本人名を持っていた。「台湾はかつて日本だった」という事実は知っていても、ぼやっと遠くにある、どこかピントが曖昧な出来事だと捉えていた人にとっては、まるで自分がその時代、その場に立っているように、シャープに鮮明に感じられることだろう。

歴史を探求し、アイデンティティを再構築する台湾の今

日本統治時代は台湾にとって振り返りたくない負の遺産ではないのか。そう思ったのは私だけではないはずだ。だが、本書の翻訳者・中村加代子氏によると「日本統治時代も台湾のアイデンティティの一部を成すものとして、積極的に探求」されているのだという。南光をはじめとする日本統治時代の写真家が続々再発見され、写真集が出版されたり、本書のような小説が発表されるのも、こうした動きの一環といえる。羅曼・羅蘭百萬小説賞の募集要項を見ると、作品の主人公となる芸術家は、日本統治時代の日本人を含むと記載されていた。今後、そういった作品も出てくるのかもしれない。

著者のプロフィールには「歴史的な主題から台湾の多様性を描いて社会問題を探求することを得意とする」とあり、史実に忠実な歴史小説に定評があるようだ。だが、南光は、現像しないままのネガを大量に残してはいても、自分自身や自分の作品に関する文章をほとんど残していなかったため、初めての試みとして想像力を駆使して書き上げたという。とはいえ作家のまなざしは、まるでカメラのようで、伝記、いや本人でないと書けないのではと思わせる緻密な描写が続き、歴史小説家としての力量は本書でも発揮されている。また、客家の冠婚葬祭や人々の暮らしぶりのあれこれも細かく書き込まれており、非常に興味深かった。

巻末には、南光が撮影した写真12点が掲載されており、そこには本人の写真も含まれている。文章から想像していた南光と実際の彼の姿が、レンジファインダーカメラで二重像をひとつに合わせる瞬間のように重なった。 本書を読み終わって、最寄りのライカショップに足を運んでみた。初めて手にとったレンジファインダーで、おそるおそる手動でピントを合わせ、軽やかなシャッター音を聞いた時、「125分の1秒だけ」南光の世界に近づけた気がした。


著者紹介

朱和之(しゅわし/Chu He-Chin)

1975年台北生まれ。国立政治大学コミュニケーション学部でメディアを学び、出版社勤務を経て作家デビュー。歴史小説を多数書いており、『楽土』での全球華文文学星雲賞歴史小説グランプリ賞や本書の羅曼‧羅蘭百萬小說賞を始め、受賞歴も多い。2020年に書いた作曲家・江文也をモデルにした『風神的玩笑:無鄉歌者江文也』は本書と同じく春秋社の「アジア文芸ライブラリー」から『風のいたずら(仮)』として邦訳が刊行予定。

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よしい あけみ

ライター、食文化研究家。日本で情報誌の編集を経て、豪州に留学。寮で大勢のインド人学生と暮らしたのがきっかけでインドに開眼。その後南インドで10年以上暮らす。物心ついたときから、なんでも食べて、なんでも読むことが信条。

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