ディーパ・アーナパーラ 著 坂本 あおい 訳 ハヤカワ・ミステリ文庫
こごえる夜のあたたかいレンガのように
人生は楽しいことばかりでなく、つねに不安も隣り合わせだ。そんなとき、こごえる夜に母親が布にくるんで抱かせてくれる、あたたかいレンガのような希望があれば、どんなに心強いことだろう。
『ブート・バザールの少年探偵』は、インド・ケーララ州出身の作家、ディーパ・アーナパーラのデビュー作だ。執筆中から注目を集め、2020年に出版後も次々と各地で文学賞を受賞し、「読みだしたら止まらない」と米国の大手新聞も絶賛。2021年には、同国ミステリー小説文学賞の最高峰、エドガー賞長編賞を受賞した。
スラムに住む9歳の少年探偵
主人公のジャイは9歳の少年。姉と、母親、父親の4人家族。地下鉄の揺れがダイレクトに響く、バスティ(居留区)と呼ばれるスラム地区の、水道もトイレもないひと部屋に住んでいる。だが、父親の口癖は「家族の幸せを育てるのに必要なもの全部(=家族一人一人のことらしい)がこの部屋にはそろってる」という愛情に満ちた家庭で、ジャイにも貧しさを悲観する様子はない。
ある日、同じバスティに住む同級生がいなくなる。が、学校はとりあってくれず、警察も賄賂を要求するばかりか、しつこいとブルドーザーでバスティを壊すぞと逆に脅してくる始末。そうこうするうちに別の同級生が消えた。
『ポリス・パトロール』などの事件捜査系TV番組をよく観ているジャイは、この事態をどうにかできるのは自分しかいない!と捜査を開始する。仲のいいクラスメイトのパリとファイズ、後半には野良犬サモサも従えて。
果たしてジャイは消えた子どもたちを、そして犯人を見つけることはできるのか?
やんちゃで無垢な目に映る世界と現実
インドでは毎日180人もの子供が行方不明になるという。それは届け出があった数で、実際はそれ以上かもしれない。本書は子供向けの童話でなく、犯罪小説であり、浮き彫りになるのは、貧困、汚職、宗教紛争、誘拐、公害、差別、偏見が渦巻く社会の闇と残酷な現実だ。スラムと富裕層、子どもと大人、ヒンドゥー教とイスラム教、男性と女性などなど、さまざまな社会格差や不均衡も見えてくる。だが、やんちゃで無垢な子どもの目がとらえた世界も同時に描かれる。生活の音、色、匂い、人、物、動物がごっちゃになった、にぎやかなスラムの様子に悲壮感はない。小さな冒険に一緒にドキドキし、ジャイたちが通りで飛び跳ねているのが目に浮かぶようだ。
原題は “Djinn Patrol on the Purple Line”(パープル線のジン・パトロール)。
パープル線は、南インドのバンガルールに実際にある地下鉄だが、物語の舞台は架空の都市だ。季節は冬で、ジャイたちの頭の上は真っ黒いスモッグがかかっている様子から、冬の大気汚染がひどい首都ニューデリーに似た部分もある。
ジンとは、『アラジンと魔法のランプ』に登場するランプの精(魔神)として知られ、イスラム教徒の間で俗信として伝わるもので、幽霊のような存在でもあり、どうやらいいジンと悪いジンがいるらしい。
ヒンドゥー教徒の家に生まれたジャイは半信半疑ながらも、「もしジンがいるとしたら、魂がいちばんおいしい子どもをさらうに違いない」と普段から考えていた。容疑者の一人にジンも含まれる。それが「ジン・パトロール」だ。
幽霊の都市伝説。物語はどれだけの命を救えるか?
邦題に使われた「ブート・バザール」は学校の近くにある市場で、ブートは「幽霊」のことだが、いい幽霊なのだという。
本書は3部構成になっており、それぞれが「この物語はきみの命を救うだろう」という章からはじまる。ガーディアンエンジェル的な幽霊が登場する都市伝説のような話だ。
ジンに、幽霊市場に、幽霊の都市伝説、これはなにを意味するのだろう。
都市伝説はジャイたちにこう紹介される。
「この物語はお守りだ。大切に胸のそばにおいとくように。」
そうして、基本的には、ジャイの語りで進んでいくなか、消えた子どもたちの話を三人称で描く章がところどころにはさまれる。そこに「書かれていない」部分を含めて、大人であれば容易に察しがつく現実は、子どもであるジャイにはまだ想像もおよばない世界だろう。といっても、ただ恐ろしい描写でなく、夜のバザールの片隅で一人寒さに震えながら楽しいことを考える子どもの姿を書くなど、著者のまなざしは優しい。
たとえば、こんな一文。
(やりたいことは)寒さのきびしい夜にマー(=母親のこと)が布にくるんでくれる、ほかほかのレンガを抱くこと。
『ブート・バザールの少年探偵』本文より引用
貧しいなかで精一杯の愛情を見せる母親と、甘えるその子の声が聞こえてくるような現実感がある。
困難な時代にたくましく希望をつなぐ
著者は、インドで10年以上記者として働き、子どもの教育をテーマにした記事でさまざまな賞も受賞している。その当時に彼女が書いた、2002年グジャラート暴動の爪痕と、私立学校の貧困者枠の実態についての記事を読んでみたが、どちらも丹念に取材され、人々の声を丁寧に拾ったものだった。本書は記者時代に彼女が書きたくて書けなかった物語なのだ。
彼女はその後英国に渡り、大学院でクリエイティブ・ライティングを学ぶなかで、この作品にとりかかる。現在はロンドンの大学で教鞭をとっているという。
物語がどれだけの命を救えるのか、それはわからない。でも、この本を読んだあと、少しでも世界が優しい場所になるよう、いいジンといい幽霊にお願いしたいと思ったのは私だけではないだろう。
哲学者エピクロスも言っているように、時として、誰かの援助そのものより、誰かが、あるいはなにかが助けてくれるという確信、つまり希望こそが、最も心強い助けとなることは間違いない。愛情と布に包まれた、こごえる夜のあたたかいレンガのように。命を救う物語の意味はそこにある気がする。それは同時に、私たちも誰かの希望になれるということだから。
悲惨な現実を描く物語としてでなく、そのなかでたくましく希望をつないでいく物語として、何度も読み直す本になるだろう。
著者紹介
ディーパ・アーナパーラ(Deepa Anappara)
南インド・ケーララ州生まれ。ムンバイとデリーで記者として働く。貧困と宗教暴動が児童教育にもたらす影響に関する記事で、アジア開発銀行研究所(東京)が主催する“Developing Asia Journalism Awards”他を受賞。英国に渡り、イーストアングリア大学で博士号を取得後、ロンドン大学シティ校で教鞭をとる。本書がデビュー作で2021年度エドガー賞長編賞を受賞。2025年に2作目を出版予定。