アルフィアン・サアット 著 藤井 光 訳 書肆侃侃 刊
東京23区より少しだけ大きい「四つの孤独」の片隅で
シンガポールでマイノリティとして生きるマレー人の日常をさらりと描く48の掌編集。
日本語だけで通じてしまう社会に生きている私たちには、想像がつきにくい世界かもしれない。
アジアを代表する豊かな超近代都市国家シンガポールは、東京23区を合わせたより少し大きい程度の小さな島国だ。そこには600万人が住み、75%は華人(中国系)、マレー系(ほとんどがイスラム教徒)は15%、インド系(タミル人が多い)8%、その他2%という多民族社会で、四つの公用語(英語、中国語、マレー語、タミル語)が存在する。が、各民族グループは文化的に孤立しがちで、文学作品においては、一つの言語で書かれた作品が共通語である英語に翻訳されることは少ないという。
そうしたシンガポールの状況を「四つの孤独」と表現するのが、マレー系シンガポール人の劇作家、詩人、小説家アルフィアン・サアットだ。彼が2012年に発表した本書『マレー素描集』は英語で書かれ、2013年度フランク・オコナー国際短編賞候補にもなった。
本書に収められているのは、現代のシンガポールに生きるマレー人の日常のワンシーンを切り取った48の物語。短いものは1ページ、長いものでも7ページ程度。短編より短い掌編で、小説というより散文詩に近い。一見どれも無関係で、共通の登場人物もいない。だが、無作為に並べられたように見える物語と物語のあいだに、シンガポールの地名と時刻を合わせた作品が時針のようにはさみこまれ、「パヤ・レバー 午前五時」から「カキ・ブキ 午前三時」まで、1日の流れが感じられる構成になっている。
19世紀と21世紀の『マレー素描集』
オレンジ色の風船にくくりつけられた虹色の魚が空に浮くように見える軽やかなイラストが描かれた表紙をめくると、100年以上前に書かれた言葉が飛び込んできた。
「これらのささやかな人々の物語が語られる。もし読者諸君をマレー人たちに親しませることができず、マレー人の心のなかを覗き込んでその生のなにがしかを理解させられなかったとすれば⋯⋯それは筆者の責任である」
————フランク・スウェッテナム、海峡植民地知事・総督にして、『マレー素描集』(一八九五年出版)著者
(『マレー素描集』エピグラフより引用)
実は本書は、スウェッテナムが著した同名の書籍の構成を借り、21世紀のマレー人の視点で書き直したものだ。マレー語に堪能で現地の文化にも詳しかったスウェッテナムだが、彼の『マレー素描集(原題 “Malay Sketches“)』は、西洋人の目で、この地のさまざまなものを「異国の珍品」のように扱い、マレー人についてもひと括りに分類しようとした感は否めない。
一方、サアットは、できるだけ多くの「ささやかな」マレー人の心の奥底を覗き込み、「他の言語で言い表せない想い」を丹念に描きながら、現代人に共通する心の葛藤や人生の悲喜こもごもを浮き彫りにする。物語と呼べないほどのごく短いシーンは、読む人の心にするりと入り込んできて、さりげないけれど、はっきりとその存在を意識できる確かな余韻をもたらす。
「わたしたち」の言葉と居場所を求めて
本書のなかで印象的なのは、自分の居場所を探す人々の姿だ。そこに言語が介在してくるのが、言葉が言葉以上の意味を持つシンガポールらしさなのかもしれない。
作品「床屋」では、床屋の主人とうまくやりとりができない少年が戸惑うシーンが描かれる。
じゃあどんな髪型にしようか、と僕は訊かれた。
そのときになって、いつも恐怖が襲ってくる。その質問はマレー語で発せられるのに、僕はマレー語では答えられなかったからだ。学校の「母国語」科目では優秀な成績を取っていたけど、日常のやりとりとなると、頭の中の辞書を必死でめくるしかなかった。
(中略)
鏡を見つめると、そこにあったのは、はっきり言って居場所のない少年の姿だった。
(『マレー素描集』収録「床屋」より引用)
サアットはその戸惑いを「別の環境に入るときの息苦しさと減速」と表現する。「打ち解けた間柄のネットワーク」に入れなかった時のやるせなさは誰しも経験があるだろう。
作品「外国語」では、「文化的に結ばれるはずのない相手」を求めていつしか「愛とは、わたし以外の人たちのもの」と思い込む、40歳で独身のマイサラに、イスラム教に改宗したカナダ人のジャックが言う。
「きみは自分を守ろうとしているだけなんじゃないかな」とジャックは言った。「自分の人種や宗教について、きみはなにかの原因があると思いたがっているんだよ。原因を探しているならね。相手から愛してもらえなかったときに言い訳ができるように。
(『マレー素描集』収録「外国語」より引用)
さらに彼は、マイサラがマレー人の宿命の一つだと思い込む「ジョド(未来の伴侶)」という言葉は、フランス語で運命の愛を意味する「ル・デスタン・ヌザ・レユニ」と同じだと教える。つまり、他の言語でも言い表せるし、マレー人だけの宿命でもないのだと。
そうして作品「バスの後ろにいる男の子」では、バスの窓に釣竿を立てかけ、疲れ切った様子で、両手に揚げせんべいの袋を持ったまま、少しだけ悲しそうな顔をして眠る男の子を見て「俺」は思う。
できることなら、釣竿の先に魚を一匹引っかけてやりたかった。虹色の鱗の魚がいたら、その子はある夢から目を覚まして、びっくりして、また別の夢の中に入り込むだろうから。
(『マレー素描集』収録「バスの後ろにいる男の子」より引用)
表紙で、オレンジ色の風船といっしょに空を飛ぶ虹色の魚は、自分の居場所を探す人たちに、軽やかな別の視点を与えてくれるサアットの魔法なのかもしれない。
再結合の夢、夜のシンガポール
マレー人は、シンガポールではマイノリティだが隣国マレーシアではマジョリティとなる。その現実を人々はどう捉えているのだろうか。
作品「同窓会」では、1965年のシンガポール分離独立前に建てられたマレー学校で、トップの成績を誇ったマジドの卒業証書が一夜にして価値を失ってしまった過去が明らかになる。
自分より出世した同級生たちに会うのを目前にし、彼は思う。
張り詰めているとはいえ、毎年のこうした同窓会のほうが、決して実現することのない再結合という苦々しい夢よりもましだ
(『マレー素描集』収録「同窓会」より引用)
再結合とは、マレーシアとの再統合のことだ。
また、作品「夜のシンガポール」では、1962年に発表された同名の曲が登場する。その曲には、マラヤ連邦と合流したいという政治的な思いも込められていた。
シンガポールは、19世紀前半から英国植民地支配の拠点となり、太平洋戦争中は日本軍に占領され、その後再び英国の支配下に戻り、1963年にマラヤ連邦と合併してマレーシアの一州となるも、1965年にそこから追放される形で共和国として独立した。
太平洋戦争中のシンガポールの状況は、以前書籍レビューを紹介した台湾人作家・呉明益の『自転車泥棒』にも書かれている。同書で語られる旧日本軍「銀輪部隊」の自転車が、シンガポール国立博物館に展示されていることを今回知った。
居場所を探しているのは、人だけではないのかもしれない。
サアットのまなざし
最後に、サアットの活動について紹介しておきたい。マレー語と英語で自分の作品を発表する以外に、マレー語作品の英訳も行う。さらに、政治、LGBT、人種などを積極的にテーマに選ぶことでも知られる。
その彼が、インタビューで、旧日本軍占領下のシンガポールで多くの中国人の命を救った日本人外交官について調べ話していることは注目に値する。シンガポールでも(そしておそらく日本でも)表立って口にすることは憚られる風潮のなか、どういう時代であれ、基本的な人間の優しさを認めることは重要ではないかと投げかける。
それは、目をそらさずに人生の光と影を描いた本書のまなざしと共通するものがあるように感じた。
著者紹介
アルフィアン・サアット(Alfian Sa’at)
1977年シンガポール生まれ。マレー系の詩人、作家、劇作家。10代から演劇の創作で注目され、1998年に詩集 “One Fierce Hou”でデビュー、1999年に短編集『サヤン、シンガポール(原題 “Corridor”)』を発表し、シンガポール文学賞を受賞。マレー語と英語での執筆活動を続け、2012年に発表した『マレー素描集』でフランク・オコナー国際短編賞候補。ほかに脚本 “Nadira”など。
写真情報:
Ngerng21, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
シンガポールの高層ビル群