別世界に通じる「どこでもドア」のような短編集
チベットの6つの物語とエッセイ。映画監督ペマ・ツェテンの小説家としてのもうひとつの顔
前回はチベットを代表する映画監督ペマ・ツェテンの映画「羊飼いと風船」を紹介したが、ツェテンは小説家でもある。そこで今回は「羊飼いと風船」の小説版「風船」を収録した短編小説集「風船 ペマ・ツェテン作品集」(大川謙作訳、春陽堂書店、2020年)を取り上げてみたい。
いずれもチベットが舞台
この作品集には短編小説6篇とエッセイ1篇が収録されている。
まずは小説から見ていこう。「風船」「轢き殺された羊」「九番目の男」「よそ者」「マニ石を静かに刻む」「黄昏のバルコル」。どの作品も舞台はチベットだが、「黄昏」のみラサ、残りの作品はツェテンの故郷アムド地方の架空の農村らしい。
チベットといえば?
中国に数年留学した経験のあるわたしは、実はチベットという地名を聞くだけで複雑な感情を抱いてしまうところがある。まだ見ぬ憧れの辺境の地であると同時に、いわゆる「チベット問題」にも頭がいくからだ。
だから本作も最初は作品の時代背景を示すキーワードなどを意識して、いくらか分析的かつ「政治的に」読みだしたが、すぐにそんなことは忘れて物語に夢中になってしまった。
別世界へようこそ
なにしろ舞台となる世界が強烈だ。
そこは人々がいまなお輪廻転生を信じており、生まれつきの痣ひとつで祖母の生まれ変わりとみなされたり、夢に死者があらわれては、ああしろ、こうしろとお告げをしたりする土地で、どこに行ってもやたらと羊がいて、荒野を行くトラック運転手は居眠り運転で羊を轢き殺し、その羊を供養すべく寺に持ち込み、酒飲みは羊肉をつまみに杯を傾けたかと思えば、酔いざましにも羊スープを飲み、つくづく男運のない美しい田舎娘は巡り巡って純朴だが精力絶倫な羊飼いと一緒になり、「俺にとって、あんたは白ターリー菩薩のような人だ!」と涙ながらにかしずかれ、幸せながらも寝不足に悩み……
まるで異世界ファンタジーか民話のような
いつのまにか「あのチベット」の物語というよりは、チベット風な設定の異世界ファンタジー小説でも読んでいるような気分になった。これは近代文学にはつきものの、登場人物の複雑な心理を描写する地の文(「某々は〜と思った」というような文)がほぼ皆無で、ほぼ会話と情景描写のみの、あたかも民話か寓話のような軽妙なスタイルのためもあるだろう。
現実のチベットがどこまで反映されているのか——そんな当初の関心は、この夢うつつで豊饒な物語世界を旅する上では妨げ以外の何物でもなかった。
「いつか俺が死んだ時には、俺も禿げ鷹に自分の屍体を喰わせてやりたいな」と乞食が言った。
(「風船 ペマ・ツェテン作品集」収録「轢き殺された羊」より引用)
店の中で明かりが灯った。中にいるのは俺の女だ。羊の肉を食うのが大好きな女だ。
「あいつ、俺が羊の半身を担いでいるのを見たらきっと喜ぶだろうな」俺は扉を叩きながら、そんなことを思った。
(「風船 ペマ・ツェテン作品集」収録「轢き殺された羊」より引用)
村人たちは毎日ここ(評者註、村の広場)に集まってよもやま話をする。今日まず話題にのぼったのは昨晩の月のことで、みな昨夜の月が如何に大きく、丸く、明るかったかを語りあった。
(「風船 ペマ・ツェテン作品集」収録「マニ石を静かに刻む」より引用)
こうした文章に出会えただけでも、本読み冥利に尽きる気分だ。ごくシンプルなのに、こちらの想像を強く刺激し、別世界にいざなう力のある文章だ。そうそう、物語ってこれでいいんだよね。そう思えた。とりわけ「マニ石を静かに刻む」は素晴らしく、十五夜に照らされた誰も居ない高原に響くその幻想的な音を自分も聞いてみたいと思った。
どこに通じているかはわからないけれど、とにかく別世界に連れていってくれる6つの「どこでもドア」。そんな小説ばかりだから、物語好きな読者には自信を持ってお薦めしたい。なおチベット文化関連の専門用語(さほど多くはない)には丁寧な訳者註がついているので、その点は心配ご無用だ。
そしてエッセイ
最後の収録作「三枚の写真から」は作者の自伝的なエッセイで、既に「風船」を読むか、映画「羊飼いと風船」を観た読者にはとりわけ興味深い内容となっている。訳者による詳しい作品解説とあわせてお楽しみいただきたい。
なお2024年10月現在、邦訳の刊行されているツェテンの小説は、この「風船 ペマ・ツェテン作品集」のほかに「チベット文学の現在 ティメー・クンデンを探して」(星泉+大川謙作訳、勉誠社、2013年)がある。
ツェテンの作品を通じてチベット文学と映画の世界に興味を持たれた読者には、本作の訳者である大川氏らが運営するチベット文学研究会/セルニャ編集部のホームページを是非ご訪問いただきたい。
著者紹介
1969年、中国青海省海南チベット自治州貴徳県生まれ。2023年没、享年53歳。チェン・カイコー(陳凱歌、「黄色い大地」「さらば我が愛/覇王別姫」等)やチャン・イーモウ(張芸謀、「活きる」「紅いコーリャン」等)を輩出した北京電影学院で映画を学び、チベットを代表する映画監督として国際的に高く評価されている。