ラシャムジャ 著 星 泉 訳 書肆侃侃房 刊
ごく普通の人々の人生のひとときや心の機微をチベット語で描いた作品

だれにでも起こりそうな出来事や日常生活の中で感じる悲しみや不安、心の成長を繊細かつ丁寧に描いている。
若い男女が心を通わせながらも、ある事件がきっかけで別れることになる「路上の陽光」とその続編「眠れる川」。立派な行者の生まれ変わりとみなされた主人公が過去の出来事に思いをはせる「風に託す」。山で放牧の手伝いをする少年の成長物語「西の空のひとつ星」。気弱な少年が強い少年と決闘することになり恐怖と不安を感じる「川のほとりの一本の木」。20年前の恋人とトランジット空港で偶然再会する「四十男の二十歳の恋」。羊をすべて売るように説得されても羊飼いを続けたかった少年の話「最後の羊飼い」。心を寄せていた男性と来るはずだった桜島ヘ女性がひとりで訪れる「遥かなるサクラジマ」の短編8篇が収録されている。
現代に生きるチベット人の姿を描きながらも、チベットらしさを感じることができる
本作品にはチベットらしさを感じられる箇所がいくつもある。三輪タクシーが出てくるし、人々はまめに寺へ参拝し、五体投地をしたり巡礼路を回ったりすることもある。「風に託す」では、人々が「生まれ変わり」を信じていることがわかるし、行者は鳥葬にされている。ときどき「オンマニペメフム」という言葉が突然出てくるが、これはチベット仏教の真言(マントラ)だ。このように、チベットの文化に触れることができる。
チベットに吹く風とは
立派な行者の生まれ変わりとみなされた主人公が、老人から昔の話を聞き過去の出来事が明らかになっていく「風に託す」について。本作品の訳者の解説では、「風」は中国共産党による侵攻と弾圧の隠喩だということだが、風にはそれ以上の意味があるようだ。
風のごときあの反乱、風のごときあの歳月。あの風は吹き荒れて、今やこの土地のあらゆるところから消え去ってしまった。
(「路上の陽光」収録「風に託す」本文より引用)
このように、風は無常と無情の象徴でもあるようだ。激しい弾圧の嵐が吹きあれ、何もかもを消しさったが、その風も今はもうない。また、風は時をも吹きとばし、人を確実に死へ近づける存在でもある。行者自身も次のように言っている。
「人生は短く、ただ一陣の風が吹いたかのようだった。この意識も風のようなものだ。だから、わしが死んだら、わしの体を風に託してほしい」
(「路上の陽光」収録「風に託す」本文より引用)
人生ははかなく、すべてはただ過ぎ去っていく、ということだ。諸行無常、風と時の無情さを感じさせる作品だ。
きらめく日々がもたらす影
「四十男の二十歳の恋」も時の無情さを描いている作品といえる。ある男女が20年ぶりに20歳のときの恋人に再会する。20歳のころというのは、最も輝かしい時期であり、ふたりの心にもきらめいた日々として残っている。再会し、昔と同じように話せることに感動もするが、その一方、輝いていた日々を思い返すのは胸の痛むことでもある。
二十年前の恋愛について語るのは、健康な人間がかつて悩まされていた病気について語るのに似ている。
(「路上の陽光」収録「四十男の二十歳の恋」本文より引用)
「もしあの時…」「もう一度やり直せたら」と思うのは無益なことだ。もう、二度と取りもどすことはできない。だからこそ、ふたりは「年をとった」「あの頃のことなんてばかばかしい」と言って、過去の恋を流そうとする。20年の歳月はふたりをすっかり変え、完全に引き離した。若かった日々の光は、疲れた今のふたりにはまぶしく、その光がひとときふたりの心に影を落としたようだ。
自分探しの心の旅
「遥かなるサクラジマ」は日本に暮らすチベット人2世が主人公で、唯一チベットが舞台ではない作品だ。東京から鹿児島へ行く列車の中で過去を回想するという形をとっている。
主人公はネパール、カナダ、日本と移り住み、チベットには住んだことがないので、チベットを自分の故郷とは感じていない。だから、自分の故郷はどこなのかわからない、アイデンティティの問題をかかえている。
自分の人生を親に決められてきたように感じているが、チベット語が話せてチベットのことをよく知っているという理由である男性と結婚したり、陽気なチベット人に恋をしたりするのも、親の影響からぬけだせていない現れではないだろうか?
好きになった男性と行くはずだった桜島へ向かう途中、自分の中にうっ積していたものが見えてくる。この旅が、自分を見つめなおし、過去の呪縛からのがれて新たな道へ踏みだすきっかけとなるのかもしれない。
著者紹介
ラシャムジャ
1977年、チベットのアムド地方ティカ(中国青海省海南チベット族自治州貴徳県)生まれ。北京の中央民族大学にてチベット学を修め、北京の中国チベット学研究センターの宗教学部門の研究員としてチベット仏教に関する研究を進める。邦訳が発表されている作品は、本作『路上の陽光』、長編『雪を待つ』など。アジアの作家9人による短編集『絶縁』にも作品が収録されている。チベット語文芸雑誌『ダンチャル』の主催する文学賞を過去に5回受賞(うち1回は新人賞、歴代最多)し、2012年には中国の民族文学母語作家賞、2020年には全国少数民族文学創作駿馬賞(中短編小説賞)を受賞。