エカ・クルニアワン 著 太田りべか 訳 春秋社 刊
インドネシア発、アジアンマジックリアリズムの傑作

架空の港町、ハリムンダ。伝説の娼婦、デヴィ・アユが21年の時を経て、突如として墓所より甦った。そして語られる、美しき一族の遍歴……。
オランダ統治下のインドネシアで、現地人の妾の血を引きながら裕福なオランダ人一家のもとに生を受けたデヴィ・アユ。その出生ははじめから呪われていた。彼女は日本軍の侵攻により、捕虜として収容所に送られ、やがて日本人のための娼婦となる。
希代のヒロインをおそう不条理と悲劇
この人を惹きつけてやまない魔力を持つ作品を四分の一も読み進めないうちに、デヴィ・アユは私のヒーローになった。美しく、聡明、豪胆で、あまたの武勇伝を持つ女。
彼女の容姿についての描写はそれほど多いとはいえないが、想像してみてほしい。美しいインドネシア人の娘とオランダ人領主の血をひく女。ヨーロッパ人の骨格を、ワントーン明るいながらアジア人ならではのきめ細かく滑らかな肌で覆った身体を。
収容所での過酷な生活でさえものともせず、問題を解決し、周囲の人間をも助ける。その大胆さにはときに度肝を抜かれる。ヒルを使って牛の血のソーセージを作るなんて。
しかしそんな彼女も、この世の不条理からは逃れられない。善意が必ずしも善意として受け止められるとは限らない。現実の世界にも通じることだ。
「善意」から「悪意」と「呪い」が生まれ、それは彼女ひとりの人生のみならず、その血をひく者たちにも累を及ぼす。
ちりばめられたユーモアと皮肉
ハリムンダの始祖にして絶世の美女、ルンガニス姫は、自主的な幽閉生活の末、自分を巡る争いに終止符を打とうと、決断を下す「窓を開けて最初に目にした男と結婚しよう」。そして彼女が実際に窓の外に見たものは?
美しい16歳の花嫁から必死に逃げまどう初老の男。片思いの相手である少女を前に、コチコチに緊張した墓守の一人息子。こと女性関係に関しては引く手あまたでありながら、不覚にも8歳の少女に恋してしまった青年。
これらの情景を思い浮かべると、笑いがこみあげてくる。
本人たちが必死で大真面目であるがゆえに、その不条理さがおかしい。シチュエーションコメディの世界だ。
そしてこの毒を含んだ笑いの多くは、デヴィ・アユとその一族の美しさを発端としたものだ。
他の多くの優れた作品と同様、本作にも、悲劇の裏のユーモア、ユーモアに含まれたたっぷりの毒、毒からかすかに立ち上る甘い香り……という具合に、複雑な面白みが備わっている。
人間の多面性を反映した登場人物たち
紙のページ数にして527ページ。このような大作の魅力のひとつは、主人公だけでなくそれを取り巻く登場人物の人生も丹念に描かれていることである。
超人的な戦闘能力を誇り、町の英雄としてもてはやされていた小団長、最後の拳法使いにしてならず者のママン・ゲンデン、無邪気ないたずらっ子で人気者のクリウォン。この男たちの人生もまた、デヴィ・アユとその娘たちとの出会いとかかわりを通して流転していく。
英雄が俗物へと変容し、陽気に暮らしていた若者が共産党の活動に身を投じていく。
ならず者のエディ・イディオットやママン・ゲンデンでさえ、誰かを殴る時、本人にはそれなりの理由がある。周囲が納得するかは別として。
そこには、完全な善人も悪人もいない。そして私はそんな彼らに共感する。だって、その姿はヒーローにもヴィランにもなれない、私たちそのものだから。
インドネシアの伝統芸能にみるマジックリアリズムの源流
本作では、町中を亡霊が闊歩し、母親の胎内で十月十日を過ごしたはずの赤ん坊が忽然と消えるといった現象が描かれている。そしてそれは人々の通常の生活の延長線上で起こる。不思議と日常のとなりあわせ、これこそマジックリアリズムである。
魔術舞踊(シントレン)、革馬憑依舞踊(クダ・ルンピン)といったインドネシアの伝統芸能も登場する。興味をひかれて動画をいくつか見てみたが、ダンスや芝居の最中に、いわゆるトランス状態に陥った演者が縄抜けや不思議な技を披露する。
クダ・ルンビンで演じられるのは、インドの神話『ラーマーヤナ』などから題材をとった芝居で、こちらも魔術と不思議に満ちた物語の世界。
このようなものを折りに触れて見ていれば、身の回りで不思議なことが起こっても、それをリアルに受け止めるようになるのも頷ける。「あれはインチキだ」などと言って種明かしをしようとしたりせず、不思議なことを不思議なこととして受け入れ、幼子のように純粋に楽しむ文化が下敷きにあるのだ。
日本でも祭りの行事で火渡りが行われたり、トランス状態の女性が未来を占うという神事もある。
おそらくヨーロッパでは中世の魔女狩りの時代になりを潜めてしまったこのような風習が、アジアに限らず、中南米、アフリカ大陸の各地で残っている。
インドネシアを蹂躙する暴力の嵐
オランダ人による統治、それに取って代わる日本軍の統治、政府軍と共産党ゲリラとの闘い。政治的な暴力がインドネシア全土を飲み込み、ハリムンダの町でもならず者が盗み、殺し、人々を脅かす。そのならず者を倒したよそから来たならず者が、町を支配する。
かくして暴力は果てるともなく続く。
スカルノ元大統領による日本礼賛を真に受け、「日本は欧米列強の支配下であえぐ東南アジア諸国を解放するために戦った」というおためごかしを疑いもせずに信じている一部の日本人には残念なお知らせだが、『美は傷』では日本軍も他の侵略者とたがわず、インドネシアの地を暴力で蹂躙した一派、残忍な略奪者として描かれている。
インドネシアの地元民は、むしろ、日本軍の統治により、長年にわたり主人であり隣人であったオランダ人が去っていくのを惜しむ。
本作はフィクションであるから、すべての真実を伝えているとは思わないが、それでもそこにはいくぶんかの真実が込められているはずである。
アジアにおける暴力の歴史をどのように受け止めるべきか。日本人もその当事者として、客観的に事実を見据え、考えていくべきだろう。その時に、文学作品は私たちに新たな視点を授けてくれる。
著者紹介
エカ・ルクニアワン(Eka Kurniawan)
1975年、インドネシアのタシクマラヤに生まれる。2000年に短編集『Corat-coret di Toilet(トイレの落書き)』(未邦訳)で小説家としてデビュー。初の長編小説『美は傷』を2002年に発表。2作目の長編小説『Lelaki Harimau(虎男)』(未邦訳)は、インドネシア作品として初めてブッカー国際賞にノミネートされ、国際的な文学賞を多数受賞した。出版社Moooi Pustakaを主宰。