陳 柔縉 著 田中 美帆 訳 春秋社 刊
日本統治下の台湾で生まれ育った一人の女性の激動の人生を描いた歴史フィクション

実在した女性をモデルに、良妻賢母に徹した主人公の生き方から台湾の歴史を紐解く。
本作は在日台湾婦女会の初代会長、郭孫雪娥(カクソン・セツガ)の人生をモデルとしたフィクションである。主人公、孫愛雪は日本統治時代に台湾南部の港町・高雄で生まれたが、戦後の政治的弾圧で父と夫は祖国台湾を去り、日本へ渡る。孫愛雪もその流れで日本行きを決意した。
幼少期より教え込まれた「良妻賢母」の教えを徹底すべく、孫愛雪は家事と仕事を真面目過ぎるくらい両立させ、夫を献身的に支えた。そして晩年、家族を陥れたある真実を知ることになる。
健気な良妻賢母の生き方
本作を読んでいて一番印象的だったのが、主人公のいじらしいほどの良妻賢母ぶりだ。
「妻でありながら、夫を支えないなんてとんでもないことよ。まだ小学生の息子三人を夫に任せるなんて」「女性が自分の仕事を持つのはいいことよ。自分の実力を見せるのも大したものだわ。だけど、自分の仕事のために、良妻賢母としての責務を全うしないのはあり得ない」
(「高雄港の娘」本文より引用)
現代の日本でどれほどの主婦が良妻賢母の教えを実践しているか。男性の子育て支援制度や女性の社会進出が進む中で、良妻賢母の考えは廃れていっている気がしてならない。主人公はなぜこれほどまでにこの考えに固執しているのか。
本作によると、「良妻賢母」は元々日本由来の考え方であるらしい。戦前の台湾女性は、言語だけでなく価値観も含めて日本式教育から大きな影響を受けたそうだ。
日本統治時代の台湾に生まれた女性は、学校で近代的な教育を受けたが、その内容は明治以来に培われた日本の女子教育の考え方に触発されたものだった。つまり、「良妻賢母」の思想を刷り込むために女性は教育を受けていたのだ。
時代背景を考えると致し方ない面はあるのかもしれないが、洗礼まがいの教育には首を傾げたくなる。日本でも戦中、これに限らず理不尽な教えがまかり通っていた。
例えば、特攻隊。国や天皇のために真っ先に身を捧げて敵に突撃するというものだが、多くの現代人にとって、人一人の命をそこまで軽んじてよいのか疑問が残る。
現代人は過去の不条理について時代背景を考慮して認めた上で、その反省や後悔を現代社会の日常にも活かしていかなければならない。
実話ベースの女性の視点から見る台湾の歴史
山崎豊子作品の大ファンである私にとって、実話を基にして歴史を紐解く本作の展開は好みといえた。
本作のモデル郭孫雪娥は主人公と同じく高雄の出身で、台湾独立運動を経験しながら、戦後、医師である夫と共に来日した。夫は在日台湾同郷会と世界台湾同郷会の初代会長ともなった人で、来日以降は日本と台湾のために医薬品の研究開発に熱心に取り組み、台湾社会にも大いに貢献した。
そんな夫を陰で支えたのが郭孫雪娥だったという。夫の経済面を少しでも手助けしようと、日本でクリーニング店を開き、その店舗を増やして実業家としても成功を収めたそうだ。
本作の主人公も同様に、台湾独立運動に奔走する夫を経済面・精神面で支え続け、来日してから事業も成功させた。その過程でさまざまな台湾の歴史的事象や時代背景について理解を深めることもできる。
そして物語のクライマックスで明らかになるが、現実でもそうであったように、本作の主人公が知った家族を陥れた衝撃の秘密とは何なのか? その秘密を知りたい人は是非、本書を手に取ってみて欲しい。一度読み進めれば、台湾の壮大な歴史に身を任せながら、一人の女性の激動の人生を追体験し、感動の渦に包まれるはずだ。
著者紹介
陳 柔縉(チン・ジュウシン)
1964年、台湾・雲林生まれ。大学卒業後、政治記者を経て独立した後、政治関連の著作で執筆活動を始める。2005年に日本統治下台湾の近代化の歩みを『台灣西方文明初體驗』として発表し、同年台湾出版界で栄誉ある金鼎獎を受賞。2009年、『日本統治時代の台湾 写真とエピソードで綴る1895~1945』で再び同賞を受賞。また、ブックライターとして2006年に著した『国際広報官 張超英 ― 台北・宮前町九十番地を出て』で中國時報開卷好書獎を受賞。それまで歴史ノンフィクション作品を中心に発表してきたが、2020年『高雄港の娘』で小説デビュー。2021年10月に逝去。邦訳された著書は他に『台湾博覧会1935 スタンプコレクション』などがある。