エドガルド・M・レイエス 著 寺見元恵 訳 めこん 刊
社会の底辺で暮らす人々を描いたタガログ語文学

搾取と不正に苦しみながら、互いに助けあうことでかろうじて生きているフィリピンの貧しい人々の状況を、民衆の言葉であるタガログ語で赤裸々に描いたリアリズム作品。
小さな漁村から大都会のマニラへ出てきたフーリオは経済的に窮して、セメント練りの仕事についた。ところが、日給4ペソのところを2ペソ50にされ、2週間は保証金として賃金をもらえないことがわかった。金のない間は仲間に助けてもらって何とか食いつないでいたが、賃金の支払日がきても、金がないとの口実でピンハネされた額を受け取るのだった。
フーリオがマニラへ来たのは、恋人のリガヤが仕事を紹介されてマニラへ行ったきり行方不明になったからだ。必死に探し続けて、ある日偶然リガヤを見つけることができた。無理やり中国人の妾にされて、閉じ込められていたとのことだ。子どもが産まれて、子どもを置いては逃げられなくなったので、外へ出してもらえるようになったという。彼女と、子どもを連れて逃げだし田舎へ帰ろうと約束するが……。
フーリオをこのような行動に駆り立てたものとは
マニラに出てきてすぐチンピラに全財産を奪われ、親身に面倒をみてくれた仲間も納得できない状況で殺される。その後、苦労して貯めた財産とリガヤからの大切な手紙も警官だという男にだましとられる。フーリオは怒りでいっぱいになり、人が変わったようになる。慣れない大都会での暮らしに心を蝕まれたと見ることもできる。そして、次々に悲劇がおそい、ついに耐えきれなくなり、いわゆる「キレた」状態になる。本書の翻訳者、寺見元恵氏の解説によると、「アモック」という現象だということだ。
いくら働いてもピンハネされるし、公的機関は全く助けてくれず、むしろ敵でしかない。実際、フーリオの面倒を見てくれた仕事仲間は、刑務官に暴力を振るわれて殺されている。 中国人の家に囚われているリガヤのことを警察に訴えられないだろうかとフーリオが言うと、仲間がこう言う。
「警察だって? うやむやにするに決まってるよ(略)。今の世の中じゃ、あるものさえあれば、法だろうが真実だろうが曲げられるんだ」
(「マニラ―光る爪」本文より引用)
少しでも不満をもらせば、仕事を失い暮らしていけなくなる。どこにも助けを求めることができない。理不尽な状況でもひたすら我慢し続けて、我慢の限界にくるとキレて、自暴自棄な行動にでてしまうということだ。
情景や心情をリアルに感じさせる独特の表現
フーリオたちがセメントを練っている場面に次のように描写がある。
ガタタン、ガタタン、ガタタン、ガタタン……
コンクリート・ミキサーが同じように回り、シャベルがグサッ、グサッ、グサッと砂利を混ぜる。のこぎりの歯がガリガリと木材に食い入り、つるはしがドスン、ドスンと鈍い音をたてて地面に落ちる。釘を打つ苛立たしい金づちの音や鉛管を切断する空虚な響きが聞こえてくる。
(「マニラ―光る爪」本文より引用)
現場の雑多な音を表現することで、機械や労働者の動きが見えてきて、労働者たちの汗のにおいや気持ちまで感じられてくる。 また、リガヤの葬式のあと、怒りと悲しみを抱えてフーリオが歩く場面は次のように描かれている。
歩道を行き交うとげとげしい顔、顔、顔……。コツコツという音を響かせて通りすぎる何万という靴、靴、靴……。
道では乗り物が身動きできぬほどぎっしり並び、飛び交うクラクションの音が耳をつんざく。文明の生んだ凶器の音楽がクラクションの合い間をぬって聞こえてくる。
(中略) ピーピーピー、ソリア、ソリア、ディビソリア行き……プープープー、ミラー、ミラー、デイリー・ミラー、たばこ、たばこ……ピーピーピー、ブーブーブー、ピリ、香ばしいピリだよ…(略)…。
(「マニラ―光る爪」本文より引用)
街の喧騒と混雑がみごとに表現されている。この後には目に入る店の名前がずらずらと続き、怒りにかられて街をずんずん歩いていくフーリオと同化したように感じられる。
このように、本作は民衆の生活や感情を民衆の言葉であるタガログ語でリアルに描いている。若者たちの支持を得て、1975年にはリノ・ブロッカ監督により映画化もされた。
著者紹介
エドガルド・M・レイエス
1936年フィリピン、ブラカン州生まれ。タガログ語週刊誌「リワイワイ」の懸賞小説に入賞し、作家となる。1960年代後半「砂漠の水」というグループを結成し、民衆の直面する現実問題、貧困、社会の不公正、暴力などをリアリズムの手法で追求しはじめた。常にフィリピン社会の底辺に生きる抑圧された人々の姿を力強いリアリズムで描く。2012年アンティポロ市にて没。「無邪気」(『フィリピン短編小説珠玉選(1)』)、「インテの村」(『世界短編名作選(東南アジア編)』)などが日本語訳されている。