康 鍩錫 著 大洞 敦史 訳 トゥーヴァージンズ 刊
20世紀初頭の台湾で花開いた和製マジョリカタイルの建築世界

1920年代、日本統治時代の台湾で、独自の発展を遂げた建築装飾があった。東西の技術と文化が融合した「花磚」と呼ばれる彩色タイル装飾だ。20年におよぶフィールドワークから生まれた、消えゆく建築文化の貴重な記録。
今から100年前の台湾では、鮮やかな色彩と美しい柄が特徴の日本製彩色タイル(和製マジョリカタイル)を使った建築が「花ざかり」となっていた。しかし、1937年に日中戦争が始まると贅沢品となり、太平洋戦争勃発後は生産停止となる。「花磚」と呼ばれる彩色タイルを用いたレトロ建築は、現在も台湾各地に少数ながら残っている。1000点を超えるタイルが勢揃いする、彩色タイルを愛してやまない研究者による20年間のフィールドワークの集大成。
本書は、和製マジョリカタイルに関する「なんでも事典」のような美しい研究書である。「タイルの文化」から始まり、「世界の彩色タイル」、「台湾の彩色タイル」と考察を進め、「彩色タイルの規格と製造」で技術的側面に迫り、「彩色タイルのデザインと配列パターン」では詳細なデザイン分析を行う。それぞれの章の間には、草花文、果物、動物、山水・人物、文字・幾何学模様といったタイルの図柄のジャンル別アーカイブを挟む充実ぶりだ。
花磚を使った台湾のレトロ建築は、近代化のなかで年々少なくなっており、また台湾国内で、これまでタイル装飾関連の本は出ていなかった。そこで「後世の人々にそのかぐわしさや、その特色を、ずっと記憶にとどめてもらえるように」と、「長年情熱を傾けて記録してきた」著者が、タイル装飾の「多様な姿態」を一冊にまとめたわけである。
南インドで出会った「ジャパニーズタイル」
和製マジョリカタイルとは何かを説明する前に、まず個人的な話から始めたい。私が彩色タイルに出会ったのは、台湾ではなく、南インドだった。
南インド、タミル・ナードゥ州南部に、チェッティナードゥという地域がある。19世紀末から20世紀初頭にかけて、チェッティヤールと呼ばれる商人カーストコミュニティがアジア諸国で富を築き、故郷に競うように豪華な邸宅を建てたことで知られる場所だ。さびれた印象の田舎町に突如巨大なお屋敷が現れる光景は、シュールで現実離れした異郷感が漂う。
ある邸宅を訪れた時、壁や床に極彩色の花柄や幾何学模様のタイルが散りばめられているのに気づいた。見学が終わり、甘いミルクコーヒーが出されたテーブルにも、同じ種類のタイルが張られていた。もっと驚いたのは、それらが現地では「ジャパニーズタイル」と呼ばれていたこと。なぜなら日本では見た記憶がなかったからである。
「ジャパニーズタイル」は「和製マジョリカタイル」のインドでの呼び名だった。本書を手に取ったのはこの出会いがあったからだ。

「富、地位、モダン」——台湾社会に浸透した彩色タイル文化
著者によれば、彩色タイルは「富、地位、モダン」の象徴として台湾建築史に独自の足跡を残したという。その中で、今でも彩色タイル張りの古民家が多く残っている金門島の例は非常に興味深い。その昔、東南アジアへ出稼ぎに行って財を成した住民が、チェッティナードゥと同じように故郷に豪邸を建てて、先祖を敬い成功を誇示したというのだ。
彩色タイルを用いたのは、「当時モダンの先端として最も流行し、最も特別で、最も色鮮やか」だったからというのが面白い。これぞまさに「故郷に錦を飾る」。地元産でなく舶来品が好まれた理由も、この辺りにあるのかもしれない。
それにしても、なぜこのような装飾が生まれ、台湾をはじめアジア各地に広まったのだろう。
「マジョルカタイル」の誕生とその道のり
書名にもなっている「マジョルカタイル」という呼称に関して、康氏は「適切でない」という考えを示し、「彩瓷(彩色タイル)」という呼び方を提案している。実際、呼び名は国や場所によってさまざまだ。
「マジョリカタイル」という呼称はどこから来たのか。本書の内容に沿って、彩色タイルの歴史を振り返ってみよう。古代中国の磚文化(註:「磚」とは煉瓦のようなもの)を基盤として発展した磁器技術は、西方へと伝わり、イスラム世界で色釉技術と融合して装飾タイルへと進化し、地中海貿易の中継地マヨルカ島を経て、イタリアで「マジョリカ焼き」としてさらに発展、19世紀にイギリスで工業化され、さらに日本で改良された彩色タイルは1920年代、台湾へと渡り、「花磚(台湾フラワータイル)」として独自の展開を見せるに至ったという。同時に前述のインドの他、タイや、マレーシアやシンガポールにも彩色タイルを用いた建築物は残っている。
「マヨジョルカタイル」という呼び名は、エキゾチックな響きを持つキャッチーな商品名のようなものだったといえるのかもしれない。それにしても、磚文化を発端とし、ヴィクトリアン様式の装飾性と日本の技術が融合した新たな姿で再び中華圏をはじめとしたアジア各地に逆輸入されるという歴史の環にあらためて感嘆する。
「はじめに」で著者はこう書いている。
台湾はこの数百年間、漢民族の移動と開拓、日本人による統治など、相異なる政権の支配の下、複雑な環境のなかで前進してきた。文化はあらゆるものを包み込む。異なる文化が交じり合う時、しばしば新しいシンボルの体系が生まれ、その表現形式にも変化が現れる。
『台湾 和製マジョリカタイルの記憶』本文より引用
そして、「その顕著な例の一つが彩色タイル装飾である」というのだ。
彼が指摘する「異なる文化が交じり合う」台湾の波乱の歩みをさらに理解するには、近年発表されている『陳澄波を探して』、『南光』、『自転車泥棒』、『台湾浪漫鉄道のふたり』など台湾の歴史フィクション作品も参考になるだろう。
なぜ彩色タイルは日本で広まらなかったのか
彩色タイルについて知れば知るほど、その愛らしさに魅せられた一人の日本人として残念に感じるのが、日本国内ではそこまで人気が出なかったという歴史的事実だ。製造技術を極限まで発展させ、各国の好みに合わせたデザインも積極的に取り入れ、満州にも大量生産体制を確立してまで彩色タイルを極めたのに、なんとももったいない。
康氏は、現在カフェとして営業している京都市の旧藤の森温泉銭湯「さらさ西陣」を貴重な使用例として紹介している。確かに侘び寂びを好んできた日本の伝統家屋に派手な色彩と図柄の彩色タイルとの組み合わせが好まれるとは言い難い。しかし、アジア諸国の伝統建築に不思議になじんでいる様子をこの本で目の当たりにすると、日本らしい展開も可能だったようにも思う。
一方、台湾では、嘉義市に花磚博物館も開設されており、豊富なコレクションを展示しているだけでなく、彩色タイルの修復活動なども行っているようだ。
「流行時期はわずかに15年」と、花のように儚くも激動の時代の日本とアジア諸国をつなぐ架け橋となった彩色タイル。100年経ってもなお、人々の心を惹きつけるのは、単なる郷愁だけではない。近年、台湾では、日本統治時代の建築全般への関心が高まっており、たとえば、同じ時代の建築装飾である「鉄窓花」の魅力も再発見され、『台湾レトロ建築さんぽ 鉄窓花を探して』などの書籍も刊行されているので、併せて読むとより理解が深まるはずだ。
東西の文化と美が交錯し、ロマンあふれる台湾の建築装飾世界を満喫した私はというと、アジア各地に残る彩色タイル建築を実際に見てまわりたくなった。さまざまな意味で、新たな旅に誘われる一冊である。
著者紹介
康鍩錫(こう・だくし)
1985年から台湾の歴史的建造物の現地調査を続ける歴史文化研究者で、台北市古風史蹟協会理事長などを歴任。『台湾古厝図鑑』『台湾古建築裝飾図鑑』『台湾廟宇深度導覧図鑑』など、台湾の建築文化を体系的に記録した多数の図録を出版。コミュニティ・カレッジ講師としても活動し、台湾の伝統建築文化の継承に貢献している。
写真情報:南インド、タミル・ナードゥ州チェッティナードゥ地方アーッタングディ村のアーッタングディ・パレスで使用されている彩色タイル。市松模様の床と彩色タイルを使った壁の色彩対比が印象的。この邸宅は偶然、本書「世界の彩色タイル」の章で、インドの彩色タイルの例としても紹介されている。同じ孔雀柄タイルでも台湾とインドでは、配列の違いか雰囲気が異なるのが興味深い。アーッタングディ村はこの地方独特の天日干しタイルの生産地でもある。