2018年に第3回台湾歴史小説賞大賞を受賞した『陳澄波を探して: 消された台湾画家の謎(原題: 陳澄波密碼)』は、台湾のゴッホと呼ばれ、近代美術の巨匠として知られる画家・陳澄波の生涯と、彼が生きた台湾の日本統治時代、第二次世界大戦後の白色テロ※1の恐ろしさを描いた作品です。日本語版が2024年に岩波書店から刊行されました。翻訳者である栖来ひかりさんにインタビューした内容を2回にわたってご紹介します。前半は、栖来さんご自身の陳澄波とのかかわりや、作品の魅力、台湾文学作品の翻訳にまつわるあれこれ、台湾歴史小説賞の意義についてお聞きしました。
(インタビュアー:よしい あけみ)

『陳澄波を探して: 消された台湾画家の謎』
柯宗明 著 栖来ひかり 訳 岩波書店 刊
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冒頭写真は陳澄波の作品のレプリカ(『自画像』と『二重橋』)の前に立つ翻訳者の栖来ひかりさん。台湾・台北市の「陳澄波文化基金会」にて。『自画像」と『二重橋』は、『陳澄波を探して』にも登場する。
「いつもどこかに陳澄波」な縁が重なる台湾生活
—— 陳澄波の絵を初めて見た時はどんな印象でしたか?
2010年ごろ、台北の銀行に飾られた絵を見かけたのが最初でした。淡水という港町を描いた絵で、エメラルドグリーンの淡水河と紅い屋根瓦をコントラストの強い色彩の対比で描いていて、とても印象的で、素敵な絵だなって思ったのが、初めて陳澄波の絵を意識した時でした。

陳澄波『淡水夕照』(1935-1937)Provided by the Chen Cheng-po Cultural Foundation.
——陳澄波との関わりは、どのように始まったのですか?
当時、骨董屋さんのアルバイトをしてたんです。そこで知り合った台湾美術史研究家で、後に『時をかける台湾Y字路 ──記憶のワンダーランドへようこそ』という私が台湾で初めて出した本の翻訳もしてくださった邱函妮さんが、陳澄波文化基金会※2と関わりがあって、彼女から、陳澄波のノートの書き起こしのアルバイトを紹介していただいたのが、2011年か2012年あたりでした。
——『陳澄波を探して: 消された台湾画家の謎』の翻訳をするようになった経緯は?
翻訳の依頼を受けたのは、2020年だったかな。コロナが始まるぐらいの時でしたね。陳澄波のノート書き起こしのアルバイト代で中国語の学校に行って、ライティングの仕事を始めたのですが、その後、陳澄波の絵が、地元山口県の防府市で見つかったということがわかって、なんかこう、陳澄波に書かされている感じだったんです。『台湾Y字路』では、陳澄波の台湾人としての葛藤と、彼の芸術について書いていたのですが、岩波書店の編集者の須藤さんが、それを読んでくださっていて、『陳澄波を探して』の翻訳をぜひお願いしたいということでお話がありました。自分が書く仕事を始めるとか、台湾の歴史に関わるようになるとか、いつもどこかに陳澄波の影を感じていたので、いただくべくしていただいた気がしました。
台湾語、日本語、北京語、上海語、異なる言葉が共存する世界
——翻訳で苦労された点は?
日本人になじみのない、あるいは読んでもわからない情報をどこまで噛み砕いたり、省略したりするかという強弱が難しかったですね。原文には、台湾語と日本語、北京語、あと上海語が出てくるんですよ。だから、それぞれの言葉の使い分けをどうするかも、結構悩みどころでした。
——言語の使い分けについて、具体的にはどのような工夫をされましたか?
例えば、同じく岩波書店から出た台湾の漫画(『台湾の少年』シリーズ)の翻訳では、台湾語を香川弁にしたりと、自分にとって一番血の通った言葉というか、ちょっと身体的な言葉として台湾語と香川弁をくっつける試みをされた方もいらっしゃいます。まあ私の場合は山口弁にはしなかったんですけれど(笑)。台湾語文学の翻訳の面白さは、台湾語、中国語、日本語といった違う言語をどうそれぞれ翻訳し直しているかが見どころだと思います。
——上海語の翻訳は「べらんめぇ調」にされたのですよね?
上海弁は中国語の中でどういう立ち位置なのかと夫に聞いた時に、ちょっと古くさい感じの言葉で、威勢のいい、昔の都会っていうか、街言葉だというので、江戸言葉っぽい感じなのかなと思ったんです。関西弁なのかなとも悩んだんですけど、台湾語を関西弁に直すのは結構多いので、少し違う風にしたいなと思って、「べらんめえ調」を採用しました。
——陳澄波の読み方については?
陳澄波自身が使用していた読みは「チン・トウハ」と「チン・チョウハ」があり、私が決められることではないと思って、陳澄波文化基金会に選んでいただいたんです。「チョウ」より「トウ」のほうが、拗音が混じらず台湾語の音に近いので「チン・トウハ」を使ってほしいというご意向でした。陳澄波文化基金会は、台湾アイデンティティをきちんと作り上げ、打ち立てていくのが、文化的命題になっている文化財団なので、文化アイデンティティの中の台湾語を大事にしたいということ、また陳澄波自身もきっとそう言うと思うはずだということなんです。
台湾歴史小説賞で初めて大賞をとった作品
——この作品の特徴的な構造について教えてください。
書評家の黒羽夏彦さんが書いて下さってなるほどと思ったのですが、この小説には3つの構造があって、第1の位相は日本統治時代、第2の位相は、戦後の主人公たちから見た過去。主人公の2人は1984年にいる設定で、その時の2人から見る過去になります。第3の位相は、今度は現代の台湾社会から見る過去です。そして、日本人が読むときにはもうひとつ、日本人から見た植民地台湾の物語という位相がプラスされます。ただでさえ、複雑な3つのレイヤーがあるんですけど、日本人が日本語で読む場合には、さらに上のレイヤーができるので、日本語に翻訳される意義があるということだと思うんですね。
——本作が台湾歴史小説賞を受賞した理由は、どのあたりにあったのでしょうか?
うーん、そうですね。台湾の歴史観が中華民国史から台湾島史に移り変わっていく過程をきちんと描いたことが評価されたのではないかと思います。中国大陸をメインにした歴史である中華民国史が戦後の台湾で教えられてきたんですけど、そうではなく、台湾島の中での歴史経験を台湾の歴史観とする考え方をもとにしたのが新台湾和平基金会が主催する歴史小説賞なんです。実は過去6回で大賞を受賞したのは本作品だけで、フィクションとしても、エンターテイメントとしても非常によく書けている点が認められたのだと思いますね。
例えば日本の歴史って、基本的にはもう出来上がっていますよね。日本人というアイデンティティも確立されているし、日本という国の存在も揺らぐことはないけれど、台湾の場合は、自分たちが国だと思っても国際的には認められてないし、台湾人アイデンティティを全員が共有しているわけでもない。そういう意味では、台湾って今、建国途中なんです。だからアイデンティティも歴史認識も、日々、揺れ動いてたりとかする。なので、今の時点で、できることをやっているという部分が評価されたのではと思います。
『陳澄波を探して: 消された台湾画家の謎』翻訳者・栖来ひかりさんに聞く(2)に続きます。
脚注:
※1 白色テロ:1947年の二・二八事件による大規模な民間人虐殺に続き、1949年から1987年まで続いた国民党政権による組織的な政治弾圧期。戒厳令下で、共産主義者や台湾独立派への取り締まりとして、逮捕、拷問、処刑が行われ、多くの知識人や活動家が犠牲となった。
※2 陳澄波文化基金会 陳澄波文化基金会 : 台湾の画家である陳澄波に関する文化活動を推進する財団法人。会長はお孫さんの陳立栢氏。https://chengpo.org/
栖来ひかり (すみき ひかり)
文筆家。山口県生まれ。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。主な著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2018)、『時をかける台湾Y字路 ──記憶のワンダーランドへようこそ』(2019)、『日台万華鏡:台湾と日本のあいだで考えた』(2023)、訳書に『陳澄波を探して: 消された台湾画家の謎』(2024)がある。
陳澄波 (チン・トウハ)
1985年、現在の台湾南部の嘉義市出身。日本の東京美術学校(現・東京芸術大学)で学び、1926年、台湾人画家として初めて帝展に入選。1947年の二・二八事件で中華民国政府軍によって殺害された。台湾近代美術界を代表する画家として、その作品は高く評価されている。主な作品に『淡水夕照』、『東台湾臨海道路』、『嘉義街中心』など。
柯宗明(カ・ソウメイ)
台湾の作家、脚本家、舞台・映像監督。テレビおよび演劇業界に長年たずさわり、テレビ番組『台湾郷鎮文化志』やドキュメンタリー『台湾美術史』をはじめ、多くの作品の脚本や演出を手がける。2018年に初めて執筆した『陳澄波を探して: 消された台湾画家の謎』で第3回台湾歴史小説賞大賞受賞。